楽山日記

ヤフーブログから引っ越してきました。特にテーマは決めずに書いてますが、スピ系の文章が多めです。若気の至りでハマってしまった宗教についても書いてます。よろしくお願いします。ヤフーブログの楽山日記と区別するために、ブログタイトルの末尾にLDとつけていましたが、ヤフーブログはなくなったので、末尾のLDも削除することにしました。

反省によって、神の愛を知る

 

アンチの研究さんの記事を読ませていただきました。
 
ブログの目的は、「アンチ幸福の科学批判ではなく、反省の実践」とのことですが、ブログ記事を読む限りは、反省というよりも、「自分は信者だ。エル・カンターレを信じ続けなければならない。絶対に退転してはならないのだ。絶対に、絶対に……」という自己暗示の実践に見えてしまいました。
 
なんていうか、信者さんを見ていると、心に殻(結界?)をつくり、信仰を揺るがすことは見ざる、聞かざる、考えざるとして、内にこもろうとする人が多いようです。
 
こういう信者さんを見ていると、お節介とは思いつつも、信者さんたちに本当に必要なのは、反省と称して、自己暗示をかけて、心の殻を厚く、強固にすることではなくて、もっとリラックスして、いろいろな人たちと交流することではないかなと思います。
 
アンチの研究さんは、幸いにして、自分の殻に閉じこもるばかりでなく、アンチ批判によって他者との交流に励んでいるようなので、これを続けることでいつかは殻を破って外に出てほしいです。外の世界は、広々としていて、空気も澄んでいるし、いろいろな人がいて楽しいものですよ。
 
   
 
ところで、今回の記事では、大川咲也加さんの発言が省略なしで引用されているようです。ここにも貼らせてもらいますと、こうです。 

 人は、「希望」を持っているうちは、いくらでも頑張ることができるものですが、絶望を感じた瞬間や、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。
 しかし、あくまでも光明思想的に、「未来は明るい。私たちは、最後の一秒まで、自らの『信仰の力』により、未来を切り拓いていくことができる。自分たちの『心の光』で、世界を照らしていくことができる」という強い思いを、一人ひとりに持っていただきたいのです。これは、日本の特徴でもあります。
 したがって、あまり悲観的になる必要はないと思いますし、むしろ、「一人ひとりの人に、もっともっと、何倍も明るい心を持っていただきたい」と私としては思っています。
 できるのであれば、みなさまには、非常に“鈍感”になっていただきたいのです。どんなに負けても、どんなに辛いことがあってもへこたれず、あっけらかんとして、笑顔でいられるような、そんな強い心の持ち主になっていただきたいと思いますね。

『神国日本の精神』

(下線は筆者による)

これを読む限りは、大川咲也加さんの考える反省と光明思想は、わたしとは全然ちがっているようです。
 
わたしは、反省とは、自分は間違いばかり犯してきたダメな奴だと自覚し、こんなダメな自分でさえも神は許してくれていると気付くことだと考えています。反省は神の愛を知るための道です。
 
そうしてここまで到達したならば、自分の力で未来を切り拓くとか、自分の心の光で世界を照らしていくと自惚れることはなくなり、「神様、わたしをお導き下さい。光を広げるために、わたしを使ってください」と謙虚に祈るようになるのだろうと思います。
 
ですから、大川咲也加さんがいうように、自分は間違っているのではないかと反省することを敬遠していたのでは神の愛を知ることはできないし、自分が未来を切り拓き、光を広めると自惚れていたのでは自我を肥大化させるばかりで信仰を持つことは難しいだろうと思います。
 
上から目線のようで恐縮ですが、大川咲也加さんの年齢を考えれば、その言葉に深みがなくても、それは致し方ないことではあります。ただ、そういう大川咲也加さんを静かな環境で大切に育みもせずに、騒がしい表に連れ出して、著書を発表させ、よいしょする教祖、教団、信者たちは何を考えているのだろうと思います。
 
また上の引用文は、絶望と自惚れ(強がり?)という両極端になっています。鈍感になるべきだともしています。もしかしたら大川咲也加さんは、些細なことで気分が大きく変わるタイプなのでしょうか。もしもそういう傾向があるなら、ますます騒がしい表よりも、静かな環境にいる方がよいのではないかと思います。わたしの推測は全然、見当違いかもしれませんが、教祖と教団には、この点について再考してほしいと思います。


ねじれ現象

 
 

上の二つの記事を読みました。
 
UMA(幸福の観測所)さんの意見は、賛否は人それぞれでしょうけれども、筋は通っているので誰にも理解はしやすいだろうと思います。
 
一方、才谷梅太郎(アンチの研究)さんの意見は、言いたいことは分からなくもないですが、論理にねじれがあり、混沌としている印象があります。
 
たとえば、才谷梅太郎さんは、反省の大切さを説きつつ、大川咲也加さんの次の言葉を引用しています。 

「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。

思うに、反省とは「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と振り返ることでしょう。
 
けれども、この引用文では、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と振り返った途端に、「すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多い」としています。これではまるで、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と反省してはいけないと言っているようです。引用文を読む限りはそのような趣旨の文章に見えます。
 
反省の大切さを力説しつつ、反省したら退転してしまうという発言を引用するというのは、一体どういう意図があるのでしょうか。

もう一つ、才谷梅太郎さんは、UMAさんの記事に対して、自殺者はどんなに苦しんでも、反省しないと救われないと反論しているようです。
 
けれども、わたしは、UMAさんの記事にある自殺者の苦しみとは、反省の苦しみと解しています。反省に反省を重ね、自らの罪深さを直視するから、そこに苦しみが発生するのだろうと。
 
だから、才谷梅太郎さんの意見は、次のように聞こえてしまいます。
 
「自殺者はどんなに苦しんでも(どんなに反省しても)、反省しないと救われない」

これでは意味不明です。
 
想像するに、才谷梅太郎さんは、自殺者の苦しみ ⇒ 苦しみといえば四苦八苦 ⇒ 四苦八苦を解消するのは四諦八正道 ⇒ 自殺者は四苦八苦でどんなに苦しんでも八正道で反省しないと救われない、という風に考えたのでしょうか。どうでしょう?
 
でも、UMAさんが書くところの「自殺するに至るまでの逡巡やその苦しみ」はそこまで単純化できる苦しみであるかどうかは微妙です。ここでいう苦しみとはもっと深刻な苦しみのことではないでしょうか。それを無理矢理に、教義の枠に当てはめて解釈して非難を加えるというのはいかがなものでしょう。
 
わたしの思い過ごしかもしれませんが、才谷梅太郎さんは、幸福の科学の教えをアンチを裁き、やっつける道具にしてしまっているところがあるように見受けられます。わたしの見当違いならそれでいいですが、もしもそういう意識が少しでもあるなら、宗教の教えは、人を裁くためではなく、人を救うためにあるという基本を再確認してみてはどうかと思います。
 
 

神に向かって (榎本保郎『旧約聖書一日一章』)

 
説教は神に仕える業である。説教が人に向かって語られている間、それは説教ではない。それが神に向かって語られる告白であるところに、人の言葉が神の言葉としての説教となり得るのである。
(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.139)

書名は失念してしまったが、ある音楽関連の本で、バッハは神の賛美のために作曲したという主旨の一文を読んだ記憶がある。
 
説教にしても、音楽にしても、神に向かってなされたときに、本当の意味で、人の心をうつものになるのかもしれない。


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