楽山日記

ヤフーブログから引っ越してきました。特にテーマは決めずに書いてますが、スピ系の文章が多めです。若気の至りでハマってしまった宗教についても書いてます。よろしくお願いします。ヤフーブログの楽山日記と区別するために、ブログタイトルの末尾にLDとつけていましたが、ヤフーブログはなくなったので、末尾のLDも削除することにしました。

いかなる人の疑問をも、やさしく受け入れてくださるお釈迦様 (『ブッダのことば -スッタニパータ-』)



一〇二八 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。
一〇三〇 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、いかなる人にとっても、もしも疑問が起こって、心に問おうと欲するならば、何でも質問しなさい。」
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』(岩波文庫)中村元訳)

 いかなる人でも疑問点があるなら何でも質問しなさいと言ってくれる指導者は、まさに理想的な指導者と言えるのではないだろうか。
 
世の中には、弟子が疑問を持つことを禁ずる指導者や、質問されると腹を立てる指導者も少なくないのだから、このように疑問、質問に寛容な指導者とめぐり合えた人は幸せだ。
 
思い出してみれば、論語でも孔子とその弟子たちはずいぶんと自由な雰囲気で語り合っている。プラトンの対話篇でもソクラテスとその他の人々は自由な議論をしている。
 
ブッダ、孔子、ソクラテスらが、書物に記されている通りの人物であったのか、実際のところは判然としないが、ただそれでも多くの人々が、仏典や論語にあるように、疑問があるときには自由に語り合える師弟関係を理想としていたということは言えそうに思う。実際に、このような師と出合えた人は本当に幸せだ。
 



信者とアンチのすれ違い 2

 
結局、アンチとは」にまとめられているアンチ批判を下に書き写してみました。①から⑤までが列記されていたもので、⑥から⑪までが地の文から抽出したものです。 

①嫉妬心が強い
②執着心が強い
③依存心が強い
④責任をすぐ外部に転嫁する
⑤揚げ足とりに終始する
 
⑥反省しない人たち(反省できない人たち)
⑦負け犬のようにすぐ吠える
⑧罵詈雑言ばかり
⑨恩を仇で帰す
⑩悪魔の弟子筋
⑪神のお心を、米粒ほども読もうとしない、慮ろうとしない人たち
 
何といったらいいか。ある意味、壮観です。大川隆法の著書にあるマスコミ、元妻、元弟子らに対する批判を取り出しても、こんな感じになりそうです。
 
嫌味とかではなくて、他人のことがこんな風に見えているとしたら、どんなに辛く、苦しいだろうかと想像します。
 
 
さて、気を取り直して、上の批判にこたえたいと思います。
 
①嫉妬心が強い
アンチに限らず、カルト教祖や信者に嫉妬する人はいませんよ。
 
②執着心が強い
③依存心が強い
アンチは、エルカンターレ信仰にしがみつくこともせず、エルカン―レに依存することもありません。また大川隆法と信者たちが正しいことをするのであれば別に批判はしません。
 
④責任をすぐ外部に転嫁する
アンチ活動の動機には、自分は、幸福の科学(カルト)の活動を支援するという間違いを犯してしまったという責任感があるものです。
 
⑤揚げ足とりに終始する
自分から見たら些細な問題にすぎないように見えても、その中に重大事が紛れ込んでいることもあるのです。神は細部に宿るといわれていることを考えてみてください。
 
⑥反省しない人たち(反省できない人たち)
退会者は、妄信することなく、反省したから、退会できたのです。
 
⑦負け犬のようにすぐ吠える
阿鼻叫喚地獄などの脅し屈せず、声を上げるためには、どんなに勇気が必要であるか想像してみてください。
 
⑧罵詈雑言ばかり
どちらかといえば、激昂して罵詈雑言するのは大川隆法とその信者でしょう。アンチはそれよりは失笑、嘲笑が多いかと。
 
⑨恩を仇で帰す
師が道を外れたら、それを諌めるのが弟子の役目。師が何をしても唯々諾々として従い、ご機嫌取りに終始すればいいというわけではないでしょう。
 
⑩悪魔の弟子筋
地獄霊には天使が悪魔に見えるといいます。そうであれば、誰かが悪魔に見えたからと言って、それが現実だとは限りません。
 
⑪神のお心を、米粒ほども読もうとしない、慮ろうとしない人たち
真なる神の心を感じているからこそ、和合僧破壊の罪などの脅しをはね返す勇気が湧き出でて、幸福の科学を批判できるのでしょう。
 
以上。批判にこたえながら、信者にはアンチの心理はなかなか理解しがたいものらしいとつくづく感じました。自分も信者だったころはそうだったし、これは仕方のないことなのかもしれませんが、少しさみしい気はします。
 
 
最後にひとこと。
 
信者には、自分の感じたことをそのまま事実だと思い込んでしまいがちの人が多いのではないでしょうか。
 
わたしには、信者の発想は、こんな感じに見えています。
 
「大川隆法総裁先生の説法は本当にすごいと思う。仏陀でなければこんな説法はできないはずだ。大川隆法総裁先生は仏陀だ」
 
「アンチの背後には悪魔の暗躍を感ずる。アンチは悪魔の弟子だ、傀儡だ」
 
こんな風に、信者には、自分の思いや感想を、そのまま事実としてしまう人が多いのではないでしょうか。
 
自分の直感を信じるということも時には大切だと思いますが、いつもいつも「自分が感じたこと=事実」という思考回路では正見は難しいでしょう。傍から見ていて、まるで暴走列車のようで人身事故を起こしそうな危うさを感じます。
 
自分の幸福のためには主観的な感じ方は大事でしょうが、他者の幸福のためには客観的な事実を無視することはできません。利他のためには、自分のしてあげたいことだけでなく、相手がしてほしいと望んでいることを知ることが大切であるように……。理性的な信者さんには、この辺りのことをじっくり考えてみてほしいです。
 

「幸福の科学」の自己責任論について


「幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 

・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。
なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、
公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 

・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
第三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。

以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う

幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。


ギャラリー
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