例のごとく、「幸福の掲示板」を通って、「 『幸福の観測所』さんの思考パターン」のコメント欄を見ました。感想をちょこっと書いてみます。
 
今の総裁を仏教徒が仏陀と認める仏教徒がどのくらいいるか。
さらに、キリスト以上と認めているのが、どのくらいいるか。
という質問は、幸福の科学は立宗20数年しかたっていない。
ということは、仏陀が悟りを開いて20数年、イエス・キリストが死後20数年後にどういう評価だったのか。
という、質問と同じだ。
たわけ。
(*一行空けになっているのは読み難いので詰めておきました)

 ☆ この論法はよく聞きます。けれども釈迦は悟りを開いて間もなく、いくつもの教団の教祖と弟子をまるごと帰依させたといいます。大国の王からも敬意を表されたといいます。
 
またイエスは、多くの大衆から支持され、ユダヤの王となってユダヤ民族を救うことを期待されたといいます。その勢力は、宗教権威者たちが脅威を感じるほどだったようです。
 
一方、大川隆法は、上のようなことはまったくないのではないでしょうか。どこかの教団を丸ごと帰依させたことも、外国の元首から敬意を表されたことも、大衆から王(政治家)になることを求められたことも、宗教権威者に脅威ととらえられたこともないのではないでしょうか。
 
このように見ると、釈迦、イエス、大川隆法の三者について、宗教活動をはじめて少しした時点での実績を並べると、大川隆法は、釈迦やイエスを上回る存在であるとは決して言えないと思います。
 
先生に自分の都合で幻想を投影して甘えれば、幻滅したり、大川隆法はただの人間だっていいだすんだよね。
 
神ではない人間を神だと主張しているのが信者で、人間は人間だと言っているのがアンチなんですが。
 
はっきり言えば、人間を肉体人間としか認識できないのがアンチ最大の間違い。
 
神であられる方を神と主張しているのが信者で、神であられる方を人間と貶めているのがアンチです。
 
聖者も人間だっていうのは一面の理解であって聖者は人間でありながら人々に神の実在を知らしめる存在なんだよね。
 
(*同一テーマの発言を、任意に抽出しました。赤はシンパ発言、緑はアンチ発言です)
 
☆これらのやり取りを見て、若者の恋愛を思い出してしまいました。恋人と付き合いはじめて間もなく、「自分は、ありのままの彼女(彼)に恋してたのではなくて、自分好みに理想化した彼女(彼)に恋していたらしい」と自覚するというやつです。
 
視点を変えれば、「この人は、自分好みに理想化した僕(私)を好いてるだけで、本当の僕(私)のことはちっとも分かってない」ともいえます。
 
そしてこの発見から教訓を得るならこうなります。「誰かを理想化した上で、愛し、信じたところで、それは本当に誰かを愛し、信じたことにはならない」
 
信者さんの発言を見ると、どうも上のような勘違いがあるように思えます。信者さんは、ありのままの大川隆法ではなくて、自分なりに神格化した大川隆法を信じているのではないかということです。誤解を恐れず、はっきり言うと、自分の心の中で、神格化した大川隆法と、理想化した自分(選ばれし自分)とをからませて、いろいろ空想し、自慰にふけっているのではありませんか。
 
中高生の子どもでさえ、片想いの相手と一回デートしただけで、「なんかちがうな。あたしは恋に恋してたみたい」と覚ったりするのですから、中高年の信者さんも「なんかちがうな。どうやら自分は信仰に酩酊してたらしい」と気付いてもいいのではないかと思います。
 
今、ここで書いたことは、信者さんにとっては、ややこしすぎたり、腹立たしく感じられるかもしれません。でもそれを承知で、分かる人もいるはずと信じて、思い切って書いてみた次第です。