上の二つの記事を読みました。
 
UMA(幸福の観測所)さんの意見は、賛否は人それぞれでしょうけれども、筋は通っているので誰にも理解はしやすいだろうと思います。
 
一方、才谷梅太郎(アンチの研究)さんの意見は、言いたいことは分からなくもないですが、論理にねじれがあり、混沌としている印象があります。
 
たとえば、才谷梅太郎さんは、反省の大切さを説きつつ、大川咲也加さんの次の言葉を引用しています。 

「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。

思うに、反省とは「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と振り返ることでしょう。
 
けれども、この引用文では、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と振り返った途端に、「すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多い」としています。これではまるで、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と反省してはいけないと言っているようです。引用文を読む限りはそのような趣旨の文章に見えます。
 
反省の大切さを力説しつつ、反省したら退転してしまうという発言を引用するというのは、一体どういう意図があるのでしょうか。

もう一つ、才谷梅太郎さんは、UMAさんの記事に対して、自殺者はどんなに苦しんでも、反省しないと救われないと反論しているようです。
 
けれども、わたしは、UMAさんの記事にある自殺者の苦しみとは、反省の苦しみと解しています。反省に反省を重ね、自らの罪深さを直視するから、そこに苦しみが発生するのだろうと。
 
だから、才谷梅太郎さんの意見は、次のように聞こえてしまいます。
 
「自殺者はどんなに苦しんでも(どんなに反省しても)、反省しないと救われない」

これでは意味不明です。
 
想像するに、才谷梅太郎さんは、自殺者の苦しみ ⇒ 苦しみといえば四苦八苦 ⇒ 四苦八苦を解消するのは四諦八正道 ⇒ 自殺者は四苦八苦でどんなに苦しんでも八正道で反省しないと救われない、という風に考えたのでしょうか。どうでしょう?
 
でも、UMAさんが書くところの「自殺するに至るまでの逡巡やその苦しみ」はそこまで単純化できる苦しみであるかどうかは微妙です。ここでいう苦しみとはもっと深刻な苦しみのことではないでしょうか。それを無理矢理に、教義の枠に当てはめて解釈して非難を加えるというのはいかがなものでしょう。
 
わたしの思い過ごしかもしれませんが、才谷梅太郎さんは、幸福の科学の教えをアンチを裁き、やっつける道具にしてしまっているところがあるように見受けられます。わたしの見当違いならそれでいいですが、もしもそういう意識が少しでもあるなら、宗教の教えは、人を裁くためではなく、人を救うためにあるという基本を再確認してみてはどうかと思います。