二一〇 あらゆる執着の場所を知りおわって、そのいずれをも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。かれは彼岸に達しているからである。
(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、p.47)

「作為によって求めることがない」というのは、いいなと思います。果報を求めて善いことをするというのは汚らしい感じがするので……。ちなみに、この部分の註を見ると、こう書いています。 

[省略] 「あれこれの執着を生ずる、善または悪をなさない。」だから、この解釈によると、善をも悪をもなさず、善悪を超越するのが聖者(ムニ)の理想であった。善だけをなすというのではないのである。
(同上、p.297)

 この部分を読んで、ふと、「心の欲する所に従えども矩を踰えず」という言葉を思い出しました。でもよく考えてみれば、両者は全然違っているかもしれません。
『ブッダのことば』には、善悪について他には次のようなことばもあります。 

五二〇 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、――このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。
(同上、p.110)

七一五 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執着が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれには煩悶が存在しない。」
(同上、p.154)

三六三 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執着せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
(同上、p.76)

自分にとっての善に固執すれば、そこに苦が生まれるでしょうから、悪のみならず、善にも執着すべきでないというのなら理解できます。でも上のことばはどうも、もっと徹底した無執着を説いているような気もします。釈尊の本意はどんなものだったのだろうなと思います。