八四二 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、――かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、――かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
八四三 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、p.187)
 
八六〇 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
(同上、p.190)

九〇四 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
(同上、p.198)

九一八 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろな質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
(同上、p.200)

九五四 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。
――と師は説かれた。
(同上、p.205)

「悟った人は、絶対の世界に入るので、自他を比べて、すぐれているだとか、劣っているだとか考えなくなる。けれども悟っていない人は、相対的な世界にあって、自他を比べて、すぐれているだとか、劣っているだとかさかんに言いたがる」ということでしょうか。この解釈が合ってるかどうかはわかりませんが、私はそんな風に読みました。