*共感できるところ
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。(以下は過去に書いた文章を再編集したもの)
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。(以下は過去に書いた文章を再編集したもの)
*怒りに我を忘れると
人格を失ってしまって、天上も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人間、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.79)
これはその通り。周囲の人々がギョッとするほど、突然、怒りを爆発させるタイプの人は、異常とされて敬遠されると思う。
*自分の持ち場・役割
神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.97-98)今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。(同上p.99)
これには共感できた。宗教活動をするならば、それ以外の、家庭、職場、学校、地域などにおける自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たしてからにすべきではある。
今現在の自分の持ち場での責務を果たさずして、宗教活動ばかりに夢中になったとしても、それは底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らないだろう。
*言うは易し行うは難し
学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)
全くその通りだ。ただ言うは易し行うは難しというように、実践は難しいのも事実。
*常識人と奇人変人
どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.171)
これは正論に思える。だからこれとは正反対に、へそ曲がりを目指そう、奇人変人は大歓迎というのは妙に感じる。
*与えているという意識のない愛
「これだけのことを自分はした。」というふうに思ってはなりません。それを他の人に認められようと思ってもなりません。自分が愛の行為をしたときには、それを忘れてしまうことです。
[省略]ごく自然に、そうしたいからする、自分はそういう行為をさせてもらうことがうれしいからしている、という気持ちが大事です。(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、p.45)
こういう「与える」という意識を持たない、ごく自然な親切はいいものだと思う。
*自然体の人生
人には、それぞれ自然なる生き方というのがある。自然体の人生というものがある。(大川隆法『永遠の仏陀』幸福の科学出版、平成3年、p.57)
他の人の人生に取って代わることはできないのだ。自分は自分の人生を生きなければならないのだ。(同上、p.65)
人にはそれぞれ個性がある。自分の個性を知り、愛し、大切にできたら、それはきっと幸福な人生だろう。
もうちょっと踏み込んでいうならば、自分の個性に合わない思想、宗教を無理に信じなくてもいいなら、それは幸福なことだと思う。
〈了〉