*分からない
よく分からないところを、まとめてみた(以下は過去に書いたものを再編集したもの)。
 
 
*霊言のしくみの変化

私の場合、いろいろな高級霊からの霊言というのを受けて、発表しています。これはある意味では、私の思想とは違うかもしれない。しかし別な意味においては、私の思想であるのです。高級霊たちは、いろいろな考え方を持っているでしょうが、そのなかで私のなかに感応するものだけが現れてきているのです。だから、実は、いろいろな霊人の霊言、思想と言いつつ、やはり私の思想であるのです。出ているものは私の思想なのです。感応するということは、私のなかにそれを受け入れる素地があるのです。だから実際、出てきたものは全部私の思想となっているのです。
(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、pp.103-104)
与える側と受け取る者とは、その感応できるという部分において同質なのです。内容的には同じなのです。こういうふうに思ってください。
(同上p.104)

この発言は、波長同通の法則からゆけば、当然であると思う。ただ近頃は、これとは逆の説明がされている。霊言はあくまで霊人が自由に発言していることであり、大川隆法氏の考えとは別なのだという。これは明らかに波長同通の法則に反している。このあたりのことについて、合理的説明はあるのだろうか。
 
 
*教祖の言葉は、どのように受け取るべきか?

我が言葉を、自分流にのみ受け取ってはならない。
[省略]
あなたがたにとって、ごく自然であり、
あなたがたにとって、普遍的でもあると思える言葉を選び出せ。
それが叡智の言葉であるのだ。
(大川隆法『仏陀再誕』幸福の科学出版、平成元年、p.46)

教祖の教えを、自分流に受け取ってはいけないのか、それとも、自分にとって自然、普遍的な教えを選び出してもいいのか。どっちが本当なのだろう?
 
 
*信じることで次元の壁が破れる?

信じるということによって、次元の壁が破れるのです。 
(大川隆法『神秘の法』幸福の科学出版、2005年、p.325)
信じるという行為をほんとうに手にするためには、次元の壁を超えなければならないのです。
(同上、p.332)

信じるから次元の壁が破れるのだろうか。それとも次元の壁を超える(破る?)から信じるようになるのだろうか。どっちだろう。
大川隆法氏の著書を読んでいると、こういう不明瞭で、分かり難い発言は多いように思います。
 
 
*仏陀の悟りとは?

我が開きたる悟りは、
人間とは何か、人間の使命とは何であるか、
そして、宇宙は何ゆえに存在し、神は何ゆえに存在するのか、
神と人間との関係は、いかようになっているのか、
[省略]
そうしたことを、我は追究し、追究し、その解答を得た。
それが仏陀としての悟りであった。
(大川隆法『仏陀再誕』幸福の科学出版、平成元年、pp.25-26)

このような事柄について追究することは、毒矢の譬えで戒められていたように思う。大川隆法氏も信者たちがそのような議論をすることをたしなめていたような……。そうだとすると、釈尊の悟りは、上のような内容であったというのは矛盾しているような気がする。
 
 
*信仰は百パーセントでなければならないのか

信仰とは、百パーセントの信仰にして、
九十九パーセントの信仰はありえないのだ。
九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。
信仰は、百パーセントを求める。
(大川隆法『仏陀再誕』幸福の科学出版、平成元年、pp.248-249)

信仰を、日本では一般に、百パーセントの確信というふうに考えがちです。そうじゃなくて、前にも述べたように、ベルナノスの言う九十パーセント疑って十パーセント希望を持つというのが宗教的人生であり、人生そのものでもあると思うんです。
(遠藤周作『私にとって神とは』)

自分は、どちらかといえば、上より、下の方の信仰観に共感している。「自分は100パーセント、神を信じている」と胸を張る人よりは、「自分はどうしても神が信じられない。でも神を信じたいという希望をなくすことはできない」という人の方が、より深く、強く、神の慰めを必要としているようだし、神はそういう人を決して見捨てないと思うので。
 
 
*「幸福の科学」でいう科学とは?

みなさんに知っていただきたいことは、「幸福の科学の『科学』という言葉の意味は、決して、実験を行う科学、実証的な科学と同じではない」ということです。
それは、やはり、信仰の科学なのです。信じるということの科学なのです。「心の法則」という意味での科学であり、「思いというものが、どのような働きをするか」という意味での科学であり、あるいは、「この世とあの世を貫いている法則とは何であるかを探究する」という意味における科学なのです。
(大川隆法『神秘の法』幸福の科学出版、2005年、pp.317-318)

この説明を読むと、「幸福の科学」の「科学」とは、「道」とほぼ同義のように思える。一般的な意味の「科学」ではないなら、なぜ「幸福の科学」と名乗ったのだろう。
 
 
*天才とは?

天才とは、「普通の頭脳を持った人では理解ができない」という極端なところまで、何かが突出した人であることを意味しています。
(大川隆法『創造の法』幸福の科学出版、2010年、p.132)

才能とは、広く世間で言われているように、普通の人よりも何か特別な力を持ち合わせているということではありません。むしろその反対で、普通の人が持っている能力をひとつかふたつ持っていないことなのです。それも、少しは持っているというような中途半端な形ではなく、見事に欠落しているということなのです。
(丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』朝日新聞社[朝日文芸文庫]、1997年、p.26)

私も、以前は、大川隆法と同じように、天才とは普通人が持っていないものを持っていると考えていたのであるが、丸山健二の見解を知って以来、こちらの方が、より天才、または才能の本質をつかんでいるような気がしている。
 
 
*信仰を求めるのではなく……

これだけ法が説かれて、肝心の日本人がまだ信ぜぬとは『情けない』の一言に尽きる
(『幸福の科学』295号)

上の発言は、下のような過去の発言と矛盾しているように思えるがどうだろう。私は下の発言には共感するけれども、上の発言にはそうは思えない。

学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)

他人のせいにしてはならない。
他の人がもし、あなたの声を無視しようとも、
あなたの誘いに乗らなかったとしても、
それをその人のせいにしてはならない。
(大川隆法『伝道論』幸福の科学出版、1991年、p.115)

伝道の成果は、みなさまがたがいかにその人格を築いているか、現時点においてどの程度の評価を受ける人間であるか、ということそのものを如実に表わしています。
(同上、p.197)

伝道ということを通して初めて、みなさんの探究や学習は本物であるかどうかを実証されるのです。実力のない人の言うことを、人は聞こうとしないのです。本物か偽物かは明らかに分かるのです。口だけで言っていても心は動かないのです。
(同上、p.200)


 *大川隆法の三島由紀夫評
大川隆法氏は、三島由紀夫について次のように言っている。 

彼の書いた小説を読むかぎり、「法学部の卒業生」ということが微塵も感じられません。法律を勉強しなかった人とほとんど同じぐらい、まったく跡形もないのです。
(大川隆法「知的体力増強法③ 自分の適性を見きわめよう」『ヤング・ブッダ』95号)

三島由紀夫(本人)はといえば、「私の小説作法」で、自作と法律の関係について次のように語っている。

以前、法制史を研究している友人が、お前の小説のメトーデ(方法)は、法制史のメトーデと同じだから、わかりやすい、といってくれたことがある。
私は法制史の勉強はしたことがないが、法律は学校で多少かじったことがある。なかんづく、小説の方法に似ているな、と思ったのは刑事訴訟法であって、刑事訴訟法の講義をきくのは面白かった。
(三島由紀夫「私の小説作法」)

手続法は審理がわき道へそれて時間を食ふことを戒めてをり、いつもまっすぐにレールの上を走るように規制されている。私の考へる小説もさうであって、したがって私の小説には、およそわき道へそれた面白さといふようなものがない。
(同上)

三島由紀夫の小説については、自分のような素人が見ても、まるでブロックやレンガを積み重ねるようにしてできているという感想を持つのだが……どうして大川隆法氏は上のような感想を持ったのだろう。作品の中の、表面の部分……不可解な美意識、意表を突く感性、衝撃的な場面……ばかり見て、作品全体の構成力、論理展開などには意識を向けなかったのだろうか。
 
 
*「徳」には「神への信仰心」が必要?

徳のなかには、「智」「仁」「勇」だけでなく、信仰の「信」が入っていなければ駄目です。
[省略]
「神への信仰心」が必要だと思っております。
(大川隆法『最大幸福社会の実現 -天照大神の緊急神示-』幸福の科学出版、2010年、pp.112-113)


この部分を読み、ふと以前に読んだ儒教関連の本にあった解説を思い出した。そこには次のようにある。

仁・義・礼・智・信の五つのことを五常と言います。ただし、五常の信は、仁・義・礼・智の四つが真実なものであり、でたらめなものではないということを表すものなので、別に言わないなら言わなくてもよいとされています。
(朱熹&呂祖謙 編集『近思録 -朱子学の素敵な入門書-』福田晃一訳解、明窓出版、平成10年、p.26)

天照大神(霊言)は「信」は神への信仰心であるとしていて、儒教の方では「信」とは、仁・義・礼・智を信じることであるらしい。両者の「信」の解釈は微妙にずれているようだし、しっくりこないものがあるようである。
 
 
*「私は~」ではなく「カントは~」という理由

カント いやあ、本当はルソーと同じで、カントも密かに自分が「神」になろうとしていたんだよ。まあ、ルソーと一緒だ。本当はそうなんだよ。
(大川隆法『霊性と教育 ―公開霊言ルソー・カント・シュタイナー―』幸福の科学出版、2010年、p.98)

カント(霊)本人が語っているなら、「カントも密かに~」ではなく、「私も密かに~」と言うのと思うのだが、そうはなっていないのはちょっと気になってしまう……。
 
 
〈了〉