*カトリックは進化論を認めている?
ローマ教皇が進化論を認めたという記事を読んだ記憶があったので、検索してみたら下の記事が見つかった。どうやら記憶違いではなかったらしい。

・ローマ教皇「ビッグバンも進化論も、神の教えと矛盾しない」海外の反応|暇は無味無臭の劇薬
・ローマ教皇の進化論発言前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が進化論を容認する発言... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1435527059

翻訳文の一番下に次の言葉があるけど、自分もその通りだと思う。
進化論は神の道具だとか、ビッグバンで神は世界を創造したとかじゃダメなわけ?
キリスト教を信じてる人の「神が全てを作った」ってシンプルなコメントは理解できるけど、世界がある特定の方法で作られたものだと証明(もしくは論理的な仮説)されたなら、それを全て否定するんじゃなくて「神」がその方法で成し遂げたと考えれば良いんじゃないの?


*信者って…
キリスト教信者であれ、他の宗教の信者であれ、教祖や聖典の無謬性を信じるというのは理解できなくもない。その一字一句をそのまま受け入れようとするのも理解できなくもない。信仰は突き詰めていけば、宗教に合致させるように自分をつくり変えて、宗教通りに考え、行動する方向に進もうとするのは自然な成り行きだろうし。
ただそれでも、進化論はほぼ事実だろうとされていて、かつ進化論と聖典とを矛盾させない聖典解釈も成り立ちうるというのに、進化論を否定する聖典解釈に拘るというのは解せない。こういうのは結局のところ、聖典を信じているというよりも、自分流の聖典解釈に固執してるだけではないかと思えてくる。


*伝統を守ることは大切だけど
文化伝統を守ることは大切なことだと思う。宗教的な儀式、タブーの中には、現代的な価値観から見たら……たとえば、人権、安全、衛生などの面から見たら問題があるとされる場合もあるだろう。でもそれでも宗教絡みの文化伝統は、よほどのことがない限りは守り続けるのが正しいと思う。
ただこの場合、文化伝統の不合理性を認識したうえで、あえて文化伝統を守ることを選択するのには共感できるけども、文化伝統には何らの不合理性はないとして文化伝統を守るというのは何か違うと思う。
これと同様に、進化論は否定しきるのは難しいと承知しつつも、聖典が書かれた当初は進化論は知られていなかったし、聖典は進化論を前提としたものではなかったとして、無暗に近代的な聖典解釈にはしることなく、古来の聖典解釈を保持しようとするならば、文化保存として有りかも知れないとは思う。でも進化論はうそっぱちだと決めつけて、進化論を否定する自分らの聖典解釈があくまで正しいと言い張るというのには唖然とさせられてしまう。なぜにそこまで頑ななんだと不思議になる。


*宗教に凝ると… 
巷には、宗教に凝るとおかしくなるなんて言われることがあるけど、教祖崇拝や、多額すぎるお布施をしている信者をみると、まさにその通りだと思う。極端な科学アレルギーもそうだ。
信者本人からしたら宗教を信じることに幸福感を得ているのかもしれないけれど、傍から見てると、もうちょっと柔軟に考えた方が楽だろうになあと思わないではいられない。これは余計なお世話なんだろうけど、そんなに肩ひじ張ってたんじゃあ生き難いだろうなあと同情してしまうというのが本音ではある。
でも、カトリックは進化論を頭ごなしに否定することはしていないようだし、この点、やっぱり歴史が古いだけあって、他の宗教と比べて一枚も、二枚も上手なんだなあと思う。なんか上から目線の感想で失礼。〈了〉