*驚いた
何年か前に読んで、良い意味での衝撃を受けた本なので、ひさしぶりに再読してみた。大雑把な流し読みではあるが、やっぱりおもしろい。その点について以下にメモっておきたい。


*幻肢のなぞ
まず一つ目は、幻肢についてだ。本書の第二章によると、ネルソン提督は戦いによって右腕を失った後も、無いはずの手(幻肢)に感覚、痛みがあったことから、肉体は失っても魂が残る証拠だと主張したという。
でも著者によれば、事実はそうではないらしい。肉体としての手を失っても、脳の中にある手を担当している部位は残るから、これによって無いはずの手があると感じられるのだという。また脳の中にある手を担当している部位は、顔を担当している部位と隣接しているので、何かが顔に触れると、同時に、無いはずの手に何かが触れたと感じてしまうこともあるという。
さらには、脳の中で、性器を担当している部位と足を担当している部位は隣接しているため、セックス中に失ったはずの足に妙な感じが生じることもあるらしい。
自分は専門家ではないので、本書の内容を正しく理解できてる自信はないのだけれど、それでも幻肢の原因は脳にあるとすれば、「脳のなかの幽霊」というタイトルは秀逸だなあと思う。


*神秘体験、奇行、異常性格の原因
二つ目は、神秘的体験や宗教的な昂揚感などについてだ。本書によれば、脳のなかの特定の部位を刺激すると、霊が見えたりするらしい。脳に障害を持っている人のなかには、宗教的恍惚感を得る人もいるともいう。どうやら神秘体験と脳とは密接に関係しているようである。
また、自分で自分の首を絞める、性衝動を抑制できない、何時間も笑い続けるなどのおかしな行動も、脳のなかに発生した障害が原因になっていることがあるらしい。
自分は元々は心霊主義者であるし、いまだに様々な現象の背後には霊的存在があると考えてしまうこともあるのだが、どうやら大概の神秘現象も、奇行も、神、霊、憑依などを持ち出すことなく、脳による作用として説明できそうだ。


*盲点、錯覚
三つ目は、自分の認識力の頼りなさを自覚させられたことだ。
本書にはさまざまな図が載っているのだけど、著者に指示された通りにその図をみると、あるはずのものが消えたり、無いはずのものがあるように見えたりするのだからおもしろい。どうやら視覚には盲点があり、脳は事実でないことをでっちあげてしまうところがあるようだ。
こういうことを知ると、自分はきちんと事実を把握しているつもりであっても、実はそうでないことも少なくないのかなあと思えてくる。これが本当ならばちょっと不安な心持ちもするが、それ以上に驚きであり、愉快でもある。


*アリストテレスとガリレオ
四つ目は、アリストテレスについてだ。
ずいぶん前に、アリストテレスは人間の歯の本数について、実際に数えることもせずにあれこれ書いてるという話を読んだ記憶があったのだが、何の本で読んだかはどうしても思い出せなかった。どうやらこの本で読んだらしい。自分の記憶とは違う部分もあるが、第二章の原注に次の記述があった。

アリストテレスは自然現象の鋭い観察者だったが、実験をする、すなわち推測をしてそれを系統的に検証するという発想はもっていなかった。たとえば彼は、女性は男性よりも歯の数が少ないと信じていた。この説が正しいことを実証する、あるいは反証をあげるつもりがあれば、ある程度の数の男女に口を開けてもらって歯の数を数えるだけでできたはずだ。近代的な実験科学はガリレオとともにはじまった。
〈省略〉
ガリレオ以前は、重い物体の方が軽い物体よりも速く落ちるとだれもが信じていた。そしてたった五分の実験で、その誤りが立証された。(実際は、実験的方法が人間の精神にとってあまりにも異質であるために、ガリレオの同業者たちは自分の目で見たあとも、ガリレオの落下実験を認めなかった。)
(ラマチャンドラン、ブレイクスリー著『脳のなかの幽霊』山下篤子訳、角川書店、1999年、[原注]p.24)

人間には目の前の現実よりも、自分の信念を優先しようとする癖があるのだとすれば残念ではある。でも、こういう癖があることを知らないよりは、知っておいた方がいいにちがいない。そうすれば自己反省に役立つだろうし、現実を否定してまでも、自分の信仰、信念に固執する人に対して優しくなることもいくらか容易になるだろう。


*進化心理学
五つ目は、第九、十章などの進化心理学について言及した部分である。前に読んだときは全然気にならなかったが、最近はそれに興味があるせいか、おもしろく読めた。

進化心理学では、他のどんな学問分野よりも、事実とフィクションの区別があいまいになりやすく、「進化心理学的な」説明のほとんどが検証不能であることが問題をいっそう悪化させている。実験をして証明する、あるいは反証をするというわけにいかないものがほとんどなのだ。
(同上、p.258)

手厳しくはあるけれど、的を射た批判であると思う。進化心理学にこのような一面があるのであれば、ちょっと宗教に似てる気がする。


*パロディ
六つ目は本文ではないけれど、養老孟司氏の解説の部分はおもしろい。どうやら著者はパロディ好きらしい。学者がパロディ好きというのは意外である。

この本の原題は『脳のなかの幻』だが、『脳のなかの幽霊』とも訳せる。なぜならこの題には下敷きがあって、ケストラーの『機械のなかの幽霊』を踏んでいるからである。著者はこういういたずらが好きで、章のタイトルには「存在の耐えられない類似」というのがある。
(同上、p.330)

『存在の耐えられない軽さ』は、池澤夏樹編集の文学全集に入ってるのを見て、そのうち読もうと思いつつもずっとそのままになっていたのだけど、この解説を読んだら堪らなく読みたくなってきた。


*いい本
以上、おもしろかったところを上げていくと、きりがないのでこの辺りで止めておく。いい本というものは、人の知的好奇心を刺激するものだとするならば、まさしく本書もそのうちの一つなのだろうなあと思う。〈了〉