以前、あるクリスチャンに次の質問をしたことがある。

「洗礼を受けてクリスチャンになったということは、いざというときは殉教する覚悟を決めたということなんですか」

これはすごく失礼な質問だけど、その人は丁寧に答えてくれたのだった。たしか、その内容は、「本来はそうあるべきなのだろうけれども、自分の場合は……うーん、難しいなあ」という意味合いのものだった。

自分はこれを聞いて、この人は本当に神を信じているのだなあと感じたのだった。クリスチャンの答えは、歯切れの悪いものではあったけれども、それだからこそ、そのなかに真実の信仰を感じたのだった。

ちょっと飛躍があるかもしれないけれど、こうしてみると、力強く信仰告白をしたからといって神を信じているとは限らないし、信仰告白ができないからといって神を信じていないとは限らないという気はする。

また別の言い方をすれば、「神よ、神よ」と祈るからといって信仰を持っているとは限らないし、「神よ、神よ」と祈らないからといって信仰がないとは限らないともいえそうではある。

もしそうであれば、神を信じるというのは中々にややこしいものだなあと思う。〈了〉