*悲しい思い出
十代の若者向きの小説を読んでいたら、次の文章を見つけた。

たとえ一つひとつの思い出は楽しくても、最後は悲しい思い出にまとめられてしまう。
(重松清『きみの友だち』新潮社〈新潮文庫〉、平成20年、pp.369-370)

これは本当にその通りだ。出会いがあれば別れがある。別れは避けようがない。そして別れのあとは、楽しい思い出ほど、悲しい思い出に転化してしまう。
楽しかったことを思いだすのは、楽しいはずである。思い出し笑いなんて言葉もあるくらいである。
でも別れのあとでは、楽しかったことを思いだすのは、涙がこぼれるほど辛い事になる。これはたまらない。
でも、小説では、次の文章がつづいている。

ほんとうに悲しいのは、悲しい思い出が残ることじゃないよ。思い出がなにも残らないことが、いちばん悲しいんだよ。
(同上、pp.370-371)

これは、元気が出る考え方である。
思い出が一つもないよりは、たとえ悲しい思い出でもあった方がよいにちがいない。でもそう考えることによって一時は元気を出せても、悲しさを消し去るところまでは行けそうにない。
結局、悲しさというものは、ずっと背負ってゆくしかないものなのかもしれない。悲しさは優しさの母でもあろうから、忌避すべきことではないし、むしろ必要でさえあるのだろうけれど、それを背負う本人からしたら、さぞ辛い事だろう。


*悲しくも美しい思い出
悲しい思い出と聞くと、夏目漱石の「硝子戸の中」を思い出す。この作品の六、七には、漱石が女から相談を受ける場面がある。
大事なところは、ぼかして書いてあるので、その意味をとり難いところもあるが、どうやら女は、悲しくも美しい思い出を持っているが、長く生きていればその思い出の美しさは色褪せ、凡庸なものになっていくだろうし、それならばいっそ、美しいものを美しいままに保存するためにも、ここで全てを完結させるべきではなかろうかと考えているらしい。

これに対して、漱石はさまざまに考えた上で、「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と答えたようである。これは穏当な答えである。美しい思い出が別のものに変わって行くとしても、死んではいけない、それが人生だということなのだろうか……。
耽美的になりすぎたり、考え過ぎたりするのは、日々の平安のためにはあまりよいことではない。でも美意識、思考力がなさすぎると生きているかいがない。この辺りのバランスは本当に難しい。
それにしても、こういう話を読むと、愛別離苦、諸行無常、一切皆苦などとはよく言ったものではある。人の悲しみ、苦しみは数千年前から変わっていないらしいことも、当時においてすでに人生の本質が喝破されていることも驚きだ。仏教が長く続いているのも、こういうところが理由になっているのだろうか……。〈了〉