宗教に凝る前は
人生の意味なんて
あまり考えたことはなかった

あれをしたい
これをしたい
などとは思っても
「自分はこのために生れてきた」
みたいなことは考えなかったと思う

でも
宗教に凝ってからは
何でも、かんでも
意味付けするようになった

たとえば、こんな感じだ
「自分が生まれてきたのは、この宗教と出会うためだった」
「あの挫折は、生き方を変えろというメッセージだったのだろう」
「体調が悪くなったのは、立ち止まって反省せよということだ」
「教祖の言動が変わったのは、何か深い意味があってのことにちがいない」

誰かと知り合ったときは、こんな意味付けもしていた
「この出会いは、この人に伝道しなさいということにちがいない」

今思えば、これはすごく迷惑なことだったにちがいない(笑)
ちなみに、「吾輩は猫である」には、次の一文があった。

凡そ天地の間にわからんものは澤山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。
(『漱石全集 第一巻 吾輩は猫である』夏目漱石、岩波書店、昭和49年、p.355)

近頃は
宗教熱も冷めたので
ものごとについて
むやみ、やたらに意味付けをすることはなくなってきた
宗教に凝る前に戻って来たらしい

そのせいか
この言葉はよく分かるように思う

すべてのものには意味があるというよりも
ものごとはすべて、意味をつけてつかないものは一つもない
という方が本当なんだろうなあ。