*欲には限りがない?
「吾輩は猫である」を読んでいたら、次の言葉に突き当った。

心の落着は死ぬ迄焦ったって片付く事があるものか。
(『漱石全集 第一巻 吾輩は猫である』夏目漱石、岩波書店、昭和49年、p.336)

この文章の前には、向こうの檜が目障りだからと取っ払っても、今度はさらに向こうの下宿屋が邪魔になり、それを取っ払ったらまた別のものが癪にさわるという具合に、どこまでいっても際限がないということが綴られている。
人間の欲求は、どこまでいっても、おさまることがないということらしい。


*同じことは繰り返される?
「道草」にも、これと似た文言があったなあと思いつつ、確認してみたら、やっぱりあった。

世の中に片付くことなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時迄も續くのさ。たゞ色々な形に變るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
(『漱石全集 第六巻 心 道草』夏目漱石、岩波書店、昭和41年、p.592)

この場面では、健三と養父とのトラブルに関して、健三の細君は養父から証文をとったから安心だといい、健三はそれは上辺だけであって本当には片付いていないというのである。
この意味については、養父は証文があろうがなかろうが、金が要るようになればまた来るにちがいないという予測だと解すれば、人間の欲はおさまることがないということになりそうである。つまり上の「吾輩は猫である」と似てる。
でも、後の台詞……一回起きたことは、何回も繰り返されるという方に重心をおけば、業、輪廻、構造といった方面に踏み込んでそうではある。


*傾向を知ること
残念なことではあるけれども、上の発言の通り、多くの場合、一度起きたことは何度も繰り返される傾向はあると思う。
たとえば、虐待されていた子供が、大人になって子供を持ったら、その子を虐待するようになったとか。クラスで浮いていた子が、高校や大学入学を機に生まれ変わろうと頑張るものの、結局、そこでも浮いた存在になってしまうとか。いったん怪我をすると、それが癖になってまた同じところを痛めるとか。その他いろいろ。
どうしてこんな風になってしまうのだろうと不思議だけども、世の中のものはなんでもそういう傾向があるようなのだから仕方ない。ただこれは、あくまでそういう傾向があるというだけで、必ずそうなるというのではないことは救いではある。
結局この辺りのことは、自分の癖、傾向を知り、同じことを繰り返さないように注意することが肝要であり、それが分かれ道になるのかなあと思う。〈了〉