武者小路実篤の小説を読んでいたら、次の一節をみつけた。この感覚はわかるように思う。

彼は何か運のいゝことがあると、父と姉が自分のまはりにゐて、自分を守護してくれるのではないかとよく思ふ。彼の理性はそれを否定するが、彼の感じはそれを否定し切るわけにはゆかない。自分のわきにゐてくれるような氣がする。あまりに自分は運がよすぎると彼はよく思ふ。
(武者小路実篤「或る男」『武者小路実篤全集第三巻』新潮社、昭和29年、p.75)

自分は、他人から見たら、運が良い方には見えないかもしれない。でもなぜか、自分では、自分は運がいいと感じているのだから不思議である。ギリギリの状況にあるときであっても、心の片隅では「まあ何とかなるだろう」と安心していたりする。まことにお目出たい人間である。

また、日々、神様から見守られているという感覚がある。ご先祖様の視線も感じる。近親者ですでに死んでしまった人の存在を、身近に感じたりもする。そういう存在を見たとか、声を聞いたというわけではないけれども、ただ何となく、今そこに居るということを感じるのである。

「そんなのは錯覚に過ぎない」と言われたら、なんら有効な反論もできないのではあるが、ただその存在を感じてしまうのだから仕方がない。それを感じているのに、感じないふりもできない。

客観的に見れば、たぶん、こういう感覚は幼少時の教育によるのだろう。「誰も見ていなくても、神様は見てるんだよ。だから悪いことはできないよ」「亡くなったお祖父ちゃんが見守ってくれてるんだよ」「お前は、ほんとうに運のいい子だ」などと繰り返し、言い聞かせられた影響で、そういったことをリアルに感じるようになっただけなのだろう。

この感覚の根っ子を探れば、少しも不思議なことはないのである。ただそれでもこの感覚は、心の平安のためには、けっこう有用なものではある。結局、宗教の起源というものは、この辺りにあるのだろう。

ひょっとすると、神様やご先祖様は本当に存在し、人々を見守ってくれている可能性もないではないが、もしそうであれば隠れてばかりいないで、時には顔を出してくれたらいいのになあと思う。〈了〉