マルケスの小説を読んでいたら、次の一節をみつけた。

昔からずっと信じてきました。聖霊は信仰よりも愛の方を重んじるのだと
(『愛その他の悪霊について』G・ガルシア=マルケス著、旦敬介訳、新潮社、1996年、p.191)

これについては、芥川龍之介も書いてたと思う。

・芥川龍之介 おぎん - 青空文庫

これらを読むと、おぎんは、愛ゆえに信仰を捨てるけれども、それによって天罰がくだるとは思われない。むしろ神から祝福されそうである。

杜子春はといえば、母への愛によって戒めを破るけれども、それで怒られるのではなく、褒められている。師は、杜子春が母のために戒めを破るのは当然のことだとしているらしい。

こういう物語を読むと、神様はやっぱり、人間には信仰よりも愛を望んでいるように思える。人間は、人間らしさを決して失ってはならないということだろう。

ちなみに、こういう葛藤は、物語の中だけではなく、現実にもあると思う。卑近な例でいえば、自分の信仰に、家族が反対した場合である。

この場合、この宗教を信じたいという自分の希望を優先するか、それとも、そんな宗教は止めてほしいという家族の願いを優先するか、どちらかを選ぶように迫られる。大雑把に言えば、自分のしたいことをするか、それとも他の気持ちを思いやって自分がしたいことを我慢するか、ということである。

信仰より愛が大切だという観点からは、この問題の答えは簡単に出るわけだけども、信仰者からしたらその答えを受け入れるのはすごく大変かもしれない。愛は言うは易し行うは難しということだろう。でもだからこそ、愛は価値があるのだろうし、傷つくほど愛しなさいというのもこういうことなのだろうなあと思う。〈了〉