先日、「ドン・キホーテ」を読み直してみた。といっても、全編ではなく、ドン・キホーテが懺悔する部分だけではあるが……。この部分は以前、読んだときにも感銘を受けたのだったが、それは今回も変わらなかった。
ここにその一部を抜き書きしてみる。
(以下は、いわゆるネタバレになるので、知りたくない方は注意してください)
(以下は、いわゆるネタバレになるので、知りたくない方は注意してください)
わしは今、自由で明るい理性をとりもどしている。あの騎士道に関するいとわしい書物をおぞましくもつづけさまに耽読したために、わしの理性の上におおいかぶさっていた無知という霧のかかったかげさえないのじゃ。わしは今にしてああいう書物の馬鹿馬鹿しさと欺瞞とがようやくわかるのじゃ。(『世界文学大系8 セルバンテス』会田由訳、河出書房新社、昭和55年、p.532)
すでにわしにとっては、遍歴の騎士道に関するあらゆる冒涜の物語はいまいましいものになりました。今にいたってわしの愚かさと、ああいう書物を読んでみずからおちいっていた危険がよくわかるのです。今にいたっては、神の広大無辺のお慈悲によって、わし自身の頭はきれいに洗っていただいたので、ああいう書物には吐き気をもよおすようになりましたわい(同上、p.533)
ドン・キホーテは、風車に向かって突撃したり、田舎娘をお姫様と思いこんだり、はちゃめちゃなことを繰り返すのであるが、ここではそのようになってしまった理由が語られている。
ドン・キホーテはもともとは理性的な人物だったが、騎士道物語に熱中しすぎたために、頭がおかしくなり、自分は遍歴の騎士であると思い込み、風車と戦ったり、田舎娘をお姫様と勘違いするようになったというのである。でも今は、騎士道物語を読みふけったために頭にかぶさっていた霧は消え失せて、正気に返ったというのである。
恥ずかしながら、自分は過去にカルトにはまったことがあるので、この部分のドン・キホーテの告白は身につまされるものがある。自分もドン・キホーテと同じじゃないかと…。
ちなみに、自分のカルト体験は、次のようなものだった。
・心霊関連の本を乱読する
・そのうちにカルト教祖の本と出会い、それを読みふけるうちに、自分は、悪をとどめ、善をすすめることを使命とする光の戦士だと思い込むようになる
・教祖夫人のことを、美の女神だと信じるようになる
・悪魔の惑わしに負けぬように心がけ、無神論者のような悪者と戦っているつもりになる
・じきに正気に返り、カルト本は読まなくなる。その種の本はすべて処分する。
・教祖夫人のことを、美の女神だと信じるようになる
・悪魔の惑わしに負けぬように心がけ、無神論者のような悪者と戦っているつもりになる
・じきに正気に返り、カルト本は読まなくなる。その種の本はすべて処分する。
うーん。改めて自分のカルト体験を振り返ると、ほんとに情けない。まさにドン・キホーテと瓜二つである。でもひょっとしたら、トンデモ本を読みふけり、それを真実だと思い込み、妄想をふくらませ、人生をあやまるというパターンは、自分だけでなく、昔っから繰り返されてきたことなのかもしれない。それだからこそ、「ドン・キホーテ」のような物語が、長い間、読み継がれて古典になったのかもしれない。
この辺りのことはよくわからないが、どちらにしても自分にとって「ドン・キホーテ」は、トンデモに対する解毒剤、予防注射としての効果があったのは確かではある。「ドン・キホーテ」は、騎士道物語の流行に終止符を打った作品だというけれども、さもありなんである。
「ドン・キホーテ」は大長編なので通読するのは大変ではあるが、前半のドン・キホーテの奇行をつづっている部分と、最後に正気に戻って過去を悔いる部分を読むだけでもおもしろいし、たくさんの気づきがある。早いうちに、この物語を知れてよかった。感謝。〈了〉
◇◆ 追記 20170323 ◆◇
『文學界』をみてたら、次の発言を見つけた。
僕はひと頃、『ドン・キホーテ』のパロディとして、司馬遼太郎を読み過ぎた男が、坂本竜馬になろうとする小説を書こうと考えていたくらいです(笑)。(『文學界』2013年11月号、文藝春秋社、p.254)
これは、中島岳志と平野啓一郎の対談「血盟団とは何者だったのか 革命・三島由紀夫・近代化」における平野氏の発言である。
こういうのは何だかわかるような気がする。たしかに司馬遼太郎の小説には、そのような影響力はある。吉川英治の「宮本武蔵」もそうだ。映画の高倉健にもそういう力がある。
さいとう・たかをの「ゴルゴ13」や、スティーヴン・キングの「ダーク・タワー」にも、そういう力がある。それらを読みふけったあとは、背後への警戒心を怠らないようになってしまうのは、私だけではなかろう(笑)。
昔は、小説や映画は、読んだり見たりしてはいけないとされていたらしいが、ひょっとしたらこういうことを警戒していたのだろうか。私は以前、小説や映画を禁止するなんて馬鹿げていると思っていたし、「あゝ玉杯に花うけて」で映画を見た友を、不良呼ばわりしている場面はおかしくてたまらなかったのだが、そういう考えにも一理あるのかもしれぬ。