神道関連の本を読んでいると、人は死んだら地下に行くという考え方に出くわすことがある。これには不満であったが、下記を読むと柳田國男も同じような感想を持っていたらしい。

いちばん私どもが不愉快に思ふのは「地下の霊」などといふ考へである。年寄にきいてみればすぐ分かるが、日本では霊は地下へ行くとは思つてゐないにもかゝはらず、本居先生などまで根の國といふのがあるから、霊が地下へ行くのだといつてをられる。それにはさすがの平田篤胤も賛成することができなくて、根の國といふのは月の中にあるんだなどといひ出してゐる。
(「来世観」『定本柳田國男集別巻第三』柳田國男著、筑摩書房、昭和39年、p.225)

こういう話を聞くと、なんだかほっとする。でも実際のところはどうなんだろう。イザナギノミコトがイザナミノミコトを追って黄泉の国に行く話からしたら、死後は地下に行くと信じられていなかったとするのは難しいのではあるまいか。

でも古事記の内容と、民間信仰とは、必ずしも一致していたとは限らないだろうし、両者の考え方に隔たりがあったとしても不思議ではないのかな。

でもそうだとすると、書物に書いてある死後の世界などというものは、なんだか信用がおけないなあ。人々は死後は地下に行くとは信じていないのに、それとは逆のことを書物に書き残した人がいて、後世ではそれを不服とした者がまた別のことを書いたとすると……これでは書物なんてものは昔の偉い人が、自分の好みに合わせて、あれこれ理屈をつけながら文字を並べただけのような気がしてくる。

以前は、書物というものは、特別にすぐれた人が、それまで知られてなかった真実を見出して書き記したものだというイメージを持っていたけど、実際には、文字を書ける者が、自己顕示欲を満足させるために、巷間で信じられている話はそっちのけで、自説を書き連ねただけの場合も少なくないのだろうか。

もしそうであれば、真実を知るには古典を学ぶだけではだめで、一般の人々……たとえば自分の身の回りに居る人たちの声に、よく耳を傾ける必要がありそうだ。偉人賢人の思想を学ぶより、むしろこちらの方が大事であるかもしれない。少なくともこちらの方は手前勝手な説を振り回されることは少なそうではある。〈了〉