ねえ、おじいさん、こんなちいさな子が、死ぬ前になぜあんなに苦しむのかしらねえ。おとななら、男でも女でも苦しむのは罪を許されるからだけど、こんな子が、罪もないのにどうして苦しむのかしら? ねえ、なぜかしら? 
(「谷間」『豪華版 世界文学全集22』チューホフ著、木村彰一訳、講談社、1976年、p.356)

これは、チューホフの「谷間」にある一説だけども、熱湯をかけられて殺された赤ん坊の母親の嘆きである。どうしてそんなことが起きたかというと、お金持ちが孫(赤ん坊)に財産を分け与えようと遺言状をつくったところ、それに腹を立てた女が、赤ん坊に熱湯をぶっかけたのである。この女からしたら、自分がもらえるはずだった財産が、赤ん坊に奪われたと思って腹が立ったのかもしれないが、財産のことなんか考えてもいなかった赤ん坊とその母親からしたら災難である。

これは小説の中での話ではあるけれども、罪もない子供が悲劇に遭うことは現実でもあることである。こんなことは本当に納得できないし、なぜそんなことが起きるのだろうと思う。

宗教的に考えた場合、「因果応報である。悪事の報いである」ということもあるかもしれない。でも赤ん坊が、死をもって償わなければならないほどの悪事をしているはずもない。因果応報の延長として、前世のカルマという可能性もあるけれども、カルマというのは、それを背負うべき主体があってこそのものだろう。赤ん坊は自我が未発達で、カルマを背負うべき“私”は、判然としない状態だろうし、それなら赤ん坊が受ける災難を、カルマというのは無理がある。

また、カルマはすぐに顕在化するわけではなく、本人がカルマに耐え得るようになってから顕在化するという。たとえば、不遇の人を嘲笑した場合、すぐ次の転生で自分が嘲笑される側になるわけではなく、幾転生を繰り返して嘲笑に耐えられる魂の強さが身についてから、ようやく嘲笑のカルマが顕在化するというのである。とすれば、赤ん坊のように自我が未発達の状態……カルマを背負うべき“私”さえ出来上がっていない状態で、カルマが現れるとは考えにくい。

では、赤ん坊本人のカルマではなく、親のカルマという可能性はあるだろうか。親が、前世で他人の子供を苦しめたので、今生では自分の子供を苦しめられる立場になったのだと……。これは親子、親族をひとまとめに考えることができた時代なら通用したかもしれないが、現代は親は親、子は子であって別人格と考えるのが当然である。こういう時代には、“親の因果が子に報い”という考え方にリアリティーを感じ、首肯できる人は少ないだろう。それにこれは自己責任の原則にも反する。

ひょっとしたら、「罪もないのにどうして苦しむのかしら?」という台詞からすると、生贄を念頭においているのかもしれない。「神の前に罪を犯した場合、生贄を捧げることで許しを請う必要があり、その生贄は罪で汚れていない清らかなものでなくてはならない。これが幼子が罪なくして苦しむ理由なのだ」という理屈である。思うに、これは“親の因果が子に報い”と同じく、幼子が別の人の罪を背負うという考え方の延長にありそうである。これには上と同じ理由で納得できる人は少ないだろう。

あとは、本人が、この世に生まれてくる前に、幼くして災難に遭う計画を立てていたという考え方がある。自分が幼くして災難に遭うことで、周囲の人々になんらかの気づきを与えることを意図して、わざわざそういう人生を選んで生まれてくるというのである。これは見方によっては、自ら進んで周囲の人々のための犠牲になるということであって、上の生贄の話とか、親のカルマを子が背負うという話に似たところがある。ただそれらは受動的だけども、こちらは能動的である。そのせいかやや受け入れやすくなっている。

でも具体例を考えると、すごくおかしな話に思える。たとえば、周囲の人々の気づきのために、赤ん坊のうちに熱湯をかぶせられて苦しみ、死ぬことを予定して生まれてきたというのは、到底、納得できることではない。また周囲の人々に気づきを与えるために、育児放棄されて餓死することを予定して生まれてきたというのも噴飯ものである。こんな話が通用するわけもない。

こうしてみると、子供の苦しみについて宗教的な意味を考えるのは、すごく難しい。この辺りのことをうまく説明している思想はないものだろうか。そういう思想があれば、イワン・カラマーゾフの無神論に悩むこともなくなるのに、と思う。でも結局は、こういう問題には万人が納得できるこたえを見いだせるはずもなく、個人個人がそれぞれになんらかの意味付けをして納得するしかないのかなあ。〈了〉