*まえおき
HS教義について、いろいろ書いてきたことを一つの記事にまとめてみた。以前に書いたものをそのままコピペするのでなく、加筆修正したけれども、文意は変えてないです。同じ論点が繰り返されているところに関しては、そのままにしておいた。
おそらくは、この中にはすでに解決された問題もあるだろうし、自分の勘違いもあるかもしれないが、とりあえず現時点の自分の考えを書いてみた次第である。
では、次から本題です。



*宗教家の間違いは許される? 許されない?

・当初
宗教家は少しの間違いも許されない、宗教家が少しでも間違うと、人の魂をくさらせてしまう恐れがある、だから宗教家の責任は重く、少しの間違いも許されないのだ、とされていた。

・その後
正心法語、太陽の法など根本的な教えでさえも、改定修正された。
過去世認定については、修正は日常茶飯事となっている。ユダを文殊だとして、信者らに拝ませることさえしていた。
でも教祖は何らのペナルティも受けていない。依然として、仏陀であり、エルカンターレとされている。宗教家は少しも間違いは許されないという話はどうなったのだろうか。

・可能性
1 大川隆法は、宗教家でないから、少しの間違いは許される?
2 細かい部分はまちがっても、本質を間違わなければよい?

・批判
1については、大川隆法は宗教家をもって任じているので、宗教家でないからよいということにはならない。
2については、「少しの間違いも許されない」とされているので、「細かい間違いは許される」とすることはできない。

・結論
この点の矛盾解消は難しそうだ。



*100パーセントの信仰

・当初
仏陀再誕において、信仰は100パーセントを求めるとしていた。

・その後
正心法語、太陽の法など根本的な教えでさえも、改定修正された。過去世認定については修正は日常茶飯事となっている。ユダを文殊だとして、信者らに拝ませることさえしていた。

・疑問
ORは、少しも間違わないのであれば、100パーセントの信仰を求めるのは道理ではある。でも少しの間違いでもあれば、100パーセントを求めるのはおかしい。
1パーセントの間違いがあるにもかかわらず、100パーセントの信仰を求めるなら、それは、間違いを正しいと思い込めと強要するのと同じだ。自分に嘘をつけというのと同じだ。これはおかしい。

・可能性
枝葉の議論にとらわれず、根本を100パーセント信じればよい。

・疑問
100パーセントの信仰は、すべてを信じ切ることだろう。根本は信じるが、枝葉はその限りにあらずというのでは、つまみ食い信仰であって容認されないだろう。



*法身信仰論

・当初
仏陀再誕では、地上の仏陀(大川隆法)に帰依すべきとしていた。

・その後
大川隆法は、肉体的な制約があり、まちがうこともある。だから信仰は、地上の仏陀(大川隆法)ではなく、天上のエルカンターレに向けるべきだという意見がでてきた。いわゆる法身信仰論である。

・疑問
仏陀再誕では、地上の仏陀(OR)に帰依すべしとしている。地上の仏陀ではなく、天上のエルカンターレに帰依すべしという法身信仰論は、容認されないだろう。

・備考
極初期には、自分の外に神を求めるのではなく、自分の心の奥に存する“内なる神”を信じよということだった。
それが、仏陀再誕の宣言があり、宗教法人化される過程で、教祖を信仰せよという方向に変わった。
この辺りが、スピリチュアリズム的な活動から、よくある教祖崇拝型の新興宗教への転換点かもしれない。



*信仰と恋愛

・当初
信仰は、崇高で、尊いものとされていた。

・その後
質疑応答において、「信仰とは、恋愛のようなものです」とされたという。

・可能性
1 信仰とは恋愛であると断定したのではなく、あくまで、たとえ話であり、類似点があると指摘しただけである。
2 キリスト教には、「キリストの花嫁」という考え方がある。

・疑問
1 恋愛には「あばたもえくぼ」といい、正確な判断ができなくなる要素がある。ピンク波動と無縁でもない。これを信仰のたとえに用いるのは不適切ではないか。
2 「キリストの花嫁」とは、正式な結婚を意味するのだろう。しかし、「信仰とは恋愛のようなもの」というのは、いわば「キリストの恋人?」というようなものであって、必ずしも正式な結婚を意味しない。
信仰のたとえに、結婚を用いるならまだしも、恋愛を用いるのは不適切である。



*判断不要?

・当初
人生問題に対しては、真理を学び、考え、判断することで、対処すべきとしていた。他人頼みでなく、主体的に生きるべきことを説いていた。

・その後
「判断しないで、ただ、ついて来て下さい」と説法しているという。

・可能性
1 判断しないでついてきなさいというのは、エルカンターレ信仰について言っているだけで、人生の諸問題のすべてについて言っているのではない。
2 全てを自力に頼るのは自我力になりがちだ。基本は自力でも、場合によっては他力もありえる。

・疑問
1 信仰は人生問題のうちで最大のものだろう。それを自分で考え、判断することなく、ただついてきなさいというのはおかしい。
2 人事を尽くして天命を待つというように、自力あってこその他力だろう。はなから自分で考え、判断することを放棄している者に、健全なる他力が与えられることは有り得るのだろうか。そういう意志薄弱で怠惰な者に、近づいてくる他力は、腹に一物ある甘言の類にすぎないのではないか?



*神罰

・当初
高級霊は、他人に対して無理矢理に何かを強いることはないとされていた。地獄霊を救いたくとも、その自発性を重んじ、無理矢理にどうこうすることはない。

・その後
信仰心が十分でなければ神罰を下すというように、信仰を持つことを強要する発言が繰り返されている。

・可能性
信じなければ神罰を下すというのは、方便の可能性がある。

・疑問
方便とは、基本的には、相手が自ら善い方向に行くように仕向けることではなかろうか。「楽しいおもちゃがあるから、こちらにいらっしゃい」というように。
「そのまま、そこにいたら神罰をくだすぞ」というのとは方向性が違うのではないか。
例外的に、不動明王のように怖い顔をする神様もいるかもしれないが、HSでは神罰を振りかざす神様ばかりなので違和感がある。



*男性霊、女性霊

・当初
男は男、女は女として創られ、魂修行しているとされていた。生まれ変わっても、性別は変わらないのが基本だというのである。

・その後
過去世は男性で、現世では女性という事例がたくさん出てきた。

・可能性
魂の兄弟の組み合わせが、女性霊三人、男性霊三人であれば、それぞれの霊としての性別は固定されていながらも、六回の転生のうち三回は女性、三回は男性ということになる。
霊としての性別が固定されていることと、転生の際に性別が変わることは矛盾しない。

・疑問
この説明は、高橋信次や、その弟子の三木野吉による魂の兄弟理論を活用したものである。魂の兄弟理論については、大川隆法よりも、高橋信次や三木野吉の方が進んでいるかもしれない。仏陀である大川隆法の教えが、高橋信次らより遅れているとしたら妙である。



*波長同通と地獄霊の救済

・当初
霊界では波長が異なれば交流できないとしていた。天使と地獄霊は波長がちがうので、お互いに干渉できない。天使は地獄霊を救いたくとも、その手を握り、引き上げることはできないというのである。漫画「幸福の科学入門」の反省の章だったろうか。そこでもそのように描かれていた。

・その後
先祖供養祭がはじまった。モーゼが陣頭指揮をとって地獄に堕ちている先祖を救ってくれるという説明だった。天使は地獄霊を引き上げることはできるのだと。

・可能性
高級霊の光神体と、地獄霊の幽体とは、触れ合うことはできない。しかし高級霊が四次元に降りて幽体を着るならば、地獄霊(幽体)の手を握り、引き上げることが可能かもしれない。

・疑問
高級霊が地獄霊を救うことができるならば、「高級霊は地獄霊を救いたくとも救えない」とか、「魂を救うには、地獄に堕ちる前、この世で生きてる間に救わねばならない」というのは嘘だったということだろうか。



*悟りを偽る罪

・当初
悟りを偽るのは大罪とされていた。ただの罪ではなく、大罪ということだった。

・その後
TS霊は、自分は9次元霊だと嘘をつき、その他の高級諸神霊も口裏合わせをしていたことが発覚した。
ORは、ユダのことを文殊菩薩の悟りを得ているとしていた。

・可能性
TS霊のように裏側の霊は、悟りを偽っても地獄に堕ちないのかもしれない。
高級諸神霊は、悟りを偽ることに口裏合わせをしても、罪にならないのかもしれない。
仏陀は、方便として、悟りを偽ることに手を貸すことができるのかもしれない。

・疑問
これについては、整合性ある解釈は難しいようだ。ことに悟りを偽ったTS霊が、7次元に上がったというのは理解不能だ。

・備考
下の発言からすれば、悟りを偽らせること……高級霊でない者を高級霊であると喧伝することは、教団の運営上必要である場合には容認されるということかもしれない。
「その過去世認定について、『事実か、事実ではないか』ということであれば、『事実ではない』と言わざるをえないけれども、『教団の初期の段階では、幹部らしきものに何らかの格付けが必要な面もあった』ということです。」(『舎利弗の真実に迫る』P30)

・感想
自分はこういう考え方は、ご都合主義だと思うし、納得できない。



*天変地異の原理

・当初
地上の人々が悪想念をまき散らすことで、その反作用として天変地異が起きるとされていた。
天変地異は、悪想念を不快とする地球意識が身動きすることで起きるのであって、神が人々を懲らしめようとして起こすのではないと。

・その後
天変地異は、神を信じない人々を懲らしめるための神罰であるという考え方が主流になってきている。

・疑問
上の二つは矛盾してる。どちらかが方便なのだろうか。
後になるほど、真実が明かされるというのであれば、後者が真実なのだろうか。
でもそうだとすると、天変地異は神罰だという考え方は、昔からある考え方だろうし、それだったら、はじめからそう言えばいいのである。どうしてわざわざ「天変地異は神が起こすのでない、悪想念の蓄積の反作用として引き起こされるのだ」と言ったのだろう。この辺りは疑問である。



*世紀末の予言

・当初
もはや世紀末の大天変地異は避けられないとされていた。それくらい悪想念が蓄積されてしまっているのだと。

・その後
予言されていたような、地球規模の大天変地異はおきなかった。
その理由については、HSの活動によって、それを避けることができたのだという。

・疑問
当初は、悪想念によって天変地異が起きるとしていた。それならば、地上ユートピアが実現して、悪想念を払拭することができたので天変地異は回避できたとするならば、筋は通る。
でもHSは、現在この世には唯物論や無神論が蔓延していると主張している。布教活動も思うようには進んでいないという。つまり地上はまだまだ悪想念に覆われているとしてる。悪想念だらけなのに天変地異は回避できたというのは筋が通らない。

・可能性
本来なら、地球規模の大天変地異が起きるのであるが、エルカンターレがそれをおさえてくださっているのだという考え方ができるかもしれない。

・疑問
神が、大天変地異がおきるのをおさえてくださっているというのは、レムリアがずいぶん前から主張していることである。この点、レムリアの方が、HSより先行していることになるかもしれない。
また大天変地異がおきるのをおさえることができるのであれば、「世紀末の大天変地異はもはや避けることはできない。これによって多くの人々が亡くなることは確実である。だから肉体を救うのでなく、魂を救うことが大事だ」という主旨の話は方便だったことになる。さらに、これが方便ならば、世紀末に人類絶滅の危機があるために、エルカンターレが降臨したという話も説得力を失う。エルカンターレが地上に降りる理由付けができなくなる。
史上最大の危機が避けられないから、史上最大のエルカンターレが姿を現わしたというのであれば筋は通る。でも止めることができる程度の危機なのに、史上最大のエルカンターレが出てきたというのは筋が通らない。



*霊言

・当初
自分が理解できないこと、自分の心にないことは霊言できないとされていた。たとえば、アインシュタイン(霊)が難しい理論を考えていても、自分はそれを理解できないので霊言はできないのだと。

・その後
霊には自由に語らせている。霊の考えと、私の考えとは必ずしも一致しないとするようになった。

・疑問
当初は、霊と考えと、自分の考えが重ならなければ霊言できないとしていた。でもその後は、その二つが重ならなくても霊言できるとしている。これは矛盾しているのではなかろうか。



*霊言と波長同通

・当初
霊言の原理として、波長同通の法則があるとしていた。高級霊と同じ波長を持っていなければ、高級霊の霊言はできないというのである。

・その後
大川隆法は、高級霊だけでなく、低級霊の霊言もするようになった。

・疑問
波長同通の法則からすると、高級霊の波長をもっている人物が、低級霊の霊言をするのはおかしい。

・可能性
大川隆法は9次元以上であるが、当初から7~8次元の霊言をしていた。自分より上の次元の波長に合わせるのは困難でも、下の次元の波長に落とすのは無理ではないかもしれない。

・疑問
大川隆法は自分を保ったまま霊言をするというのであるから、9次元以上の意識を保持したまま、一部の意識を4次元に下げるということだろうか。
でもこれだと、大川隆法の魂の一部と、低級霊(4次元下段階)とは波長同通していることになる。大川隆法の魂の一部は、低級霊と同じような悪口雑言を考えていることになる。仏陀の魂の一部が、低級霊と同じになりえるというのは変ではないか。低級霊になり得るのなら、解脱できていないのであって仏陀と言えないのではないか?



*三つほど
教義の疑問を書きながら、心に浮かんできたことがいくつかある。
まず一つは、どれも大したことじゃないなあということ。教義に関する疑問は、以前は大問題に思えたが、今は大した問題に思えなくなってる。自分の中ではすっかり結論が出て、終わったことだからなんだろう。
二つ目は、疑問点は思ってたより少ないということ。疑問点はすごくたくさんあると思ってたが、ざっとメモしてみたら20くらいだった。言ってることとやってることが違うという言動不一致問題を加えたらもっと増えるだろうけれども、教義上の矛盾に関しては、そんなもんらしい。
三つめは、教義上の矛盾は、真実を様々な角度から説明しているためとか、教えが深まったためというよりも、その都度、適当なことを言ってるために生まれているらしいことだ。その理由は、教えの方向性がバラバラだからだ。
一つの真実を様々な角度から説明したり、その理解が深まったのであれば、教えの方向性は常に変わらないだろう。でもここの教えは方向性がコロコロ変わってる。これは一つの真実をさまざまに表現しているのでなく、その時々の都合で適当なことを言ってる証拠だと思う。



*方向性の転換
方向性が変わってることは、サンポールさんとこの検証記事が分かりやすい。

●続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
●『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-241.html



*潜在意識は善悪を判断するのか?

・当初
潜在意識は、高次元霊界とつながっている。心の奥には守護指導霊がおり、神性仏性も宿っているとしていた。

・その後
潜在意識は善悪を判断せず、その思いを現実化するとしているらしい。

・疑問
潜在意識には善悪を判断する守護指導霊、神性仏性などがあるとしつつも、同時に、潜在意識は善悪を判断せずに思いを現実化するというのはおかしくはないか?

・可能性
潜在意識は広大であり、高級霊界に通ずる部分もあれば、地獄界に通ずる部分もある。
善悪の判断については、高級霊界に通ずれば正しく判断されるが、地獄界に通ずれば必ずしもそうではない。
自己実現に関して言えば、その思いが高級霊界に通じようと、地獄界に通じようとも現実化する。
善悪判断については高級霊界に通じれば正しく判断されるが、自己実現についてはどこに通じようと善悪を判断されることなく、その念の強さによって実現する。
善悪判断と、思考の現実化の話を区別するならば、上記の問題は解決できる。

・感想
霊界では、天上界の勢力と比べたら、地獄の勢力は取るに足らぬほど小さく、弱いというけれども、善悪に関わりなく思考が現実化するならば、ある意味、善悪の勢力は対等だということになりはしないだろうか。
愛の大河の前では、悪の炎が燃えようとしてもすぐ消され、押し流されてしまいそうな気もしたが、そういうわけではないのかな。



*高級霊の記憶力、知力
当初の設定では、高級霊ほど、過去を思い出せるとしていたのではなかろうか。四、五次元では、一つ二つ前の前世しか思い出せないが、高級霊になるほど過去を思い出せるのであって、一定以上になると天地創造のころまで思い出せるとか…。またそうなると、アーカシャ―の記録を読めるとか、他人の心の想念帯を読めるとも。
でも最近の霊言を読むと、高級霊だからといって記憶力は確かとは言えないらしい。また地上にあった頃よりも、あきらかに知力の落ちている場合も少なくない。
この辺りは、当初の設定から外れているように思う。



*正信?
真説・八正道では、八正道のまえに正信が必要だとしていたように思う。
でも、反省の前に「この信仰は正しい」という信念が必要だというならば、信仰については反省できないことになるのではないか?
具体的に言えば、「反省するには、大川隆法への信仰が必要である」とするならば、「大川隆法を信仰するのは正しいか?」「エルカンターレ信仰は正しいか?」という反省はできなくなるのではないかということ。
信者にとっては、これは当然のことかもしれないが、信仰対象が適切かどうかを問題にしないというのはちょっと違うような気はする。
これでは、八正道(法)より、教祖(人)の方が優先されるということになって、なんか変だ。



*仏陀と法
上の議論でも分かるように、HSでは、法より、仏陀であるとされる教祖を優先しているようだ。まずは仏陀である教祖にこそ帰依すべきで、法はその次だと…。だから、八正道(法)のまえに、教祖(仏陀?)への信仰を説くのだろうし、教えに矛盾があっても、そんなことはさほど気にせずに教祖を信じ続けるのだろう。
でも、法より優先される仏陀というのは、おかしいのではないだろうか。
基本としては、仏陀とは法の体現者であり、法と一心同体なのだろう。だとすれば、法と仏陀は同一の存在であって、どちらを優先すべきという問題は生じないはずである。
もし、法よりも仏陀を優先すべきというならば、両者には差異があるということである。法より優先すべき仏陀なるものは、法と一体ではないということであって、真なる仏陀ではないことになる。
このように考えると、HSでよく聞くところの、法よりも仏陀(教祖)を優先するという主張は、筋が通らないと思う。



*正思、正語は、どっちが先か?
もともとの八正道では、「正思→正語」という順番になっている。
「心の中で悪口を言わない→実際に悪口を言わない」というのは、まっとうな流れだ。
でも、大川隆法は、正思は難しいからと後回しにして、順序を入れ替え、「正語→正思」としていた。
「悪口は、口に出さないが、心の中では言ってる→だんだんに心の中でも悪口を止めて行けばよい」ということらしい。
これって、心の調和をおざなりにして、外面だけをよくする癖をつけることになってしまうのではなかろうか。露骨に言えば、こういう行き方は、心の中の醜悪さを他人から隠す修行になってしまいかねない。
これはいけないと思う。



*本質をつかむということ
教団の書物を読むと、細部にこだわるのでなく、本質をつかむことが肝要だという考え方がみられる。この点は、霊言に対する信者の態度によく現れている。霊言の中に事実誤認が混じっていても気にしないとか。
でも細部は雑だが、全体的には丁寧に仕上がっているものなんて、あるのだろうか。神は細部に宿るともいうし、細部をおろそかにして、全体を調和させるとか、本質を理解するとかは無理ではなかろうか。
思うに、教団の人たちは、大雑把な理解と、本質をつかむこととをごちゃまぜにしてそうだ。両者は重なる部分もあるけれども、違う部分もある。
細部は後回しにして全体を大雑把に理解するというのはよくあることだけども、本質をきちんと理解するには、細部もきちんと理解しておかなければならないものだと思う。
具体例を挙げるとすると、大雑把な理解は、言葉の定義を把握してなくても可能だろうけれども、本質を正確につかむには、言葉の定義をきちんと把握していなければならないということである。
ちなみに最近読んだ本では、山鹿素行の朱子学批判は、朱子学の“理”を誤解していたために、ズレちゃってると指摘してた。本質をつかむには、やはり細部の理解は必要と思う。



*自灯明・法灯明
大川隆法は、法を拠り所とせよというのは、仏陀がいないときのことであって、仏陀がいるときには仏陀に帰依すべきであるとしていた。
でも、仏典をみると、それとは反対のことが書いてある。

アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし…(略)…」
(大パリニッバーナ経)

ここでは明らかに、釈尊は、自分が生きている今でも、死後でも、自灯明・法灯明を実践せよと説いている。
自灯明、法灯明は、仏陀のいるいないに関わらず実践すべきことなのだろう。
この点、大川隆法の教えは、仏陀の教えと全然違う。

●仏陀ある時も、なき時も……自灯明、法灯明
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38453124.html
●自灯明・法灯明
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/37975144.html



*秘儀について
HSでは、秘儀だとか、信者限定の法話などがある。
でも、釈尊はそんなことはしなかったらしい。
私は内外の区別なしに(悉く)法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在しない。
釈尊は、教団の内と外の区別なしに法を説き、握りこぶしの中に秘儀を隠すようなことはしなかったという。
この辺りも、大川隆法と釈迦とでは全然違うようだ。




*善業の功徳
HSでは善業による功徳を説いている。布施、伝道などの善業を積めば、天国に還れるし、来世でその果報が得られるし、今生の運勢も好転するのだと…。
でも、倫理では自己の利益を目的としない善を求める。天国などの見返りを問題とせず、善そのものを目的とする。
この二つの考え方を比較してみると、HSよりも倫理の方が純粋であり、品格があるように思えるがどうだろう。
また仏典では釈尊の言葉として次のものがある。

わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい」(スッタニパータ 431 中村元訳)

この一文から善業の功徳を語る存在が何であるかを想像するとゾッとする。善業の功徳を語る存在のすべてがそうだというわけではなかろうが、その中に怖ろしい存在が混じってないとも限らないようだ。



*自分が理解できないことも霊言できる?

・当初
自分が理解できないこと、自分の中にないものなどは、霊言できないとされていた。たとえば、アインシュタインの霊が難しい理論を語りたくとも、大川隆法がそれを理解できなければ、霊言できないのだと…。波長同通の法則からすれば当然の帰結ではある。

・その後
霊の考えと、大川隆法の考えは、別だとされるようになった。
霊言では霊に自由に語らせているのであるから、霊言と大川隆法の考えは必ずしも一致しないというのである。

・疑問
当初は、霊と大川隆法の考えが重なっていなければ霊言できないとされていた。でも今は両者の考えが重ならなくても霊言できることになったらしい。これは矛盾しているのではなかろうか。
また自分の考えとは違うことを霊言できるということは、波長同通の法則にも反するのではなかろうか。波長同通の法則からすれば、自分とは正反対の考えを持つ霊と同通し、霊言させるというのはおかしくないかな?



*人生の問題集

・当初
主体的に人生を生きよと説いていた。人生は一冊の問題集のようなものであって、自分で解くからこそ価値がある。他から答えを聞いても仕方がない。HSの教えは、人生問題を解くヒントであって、個別の問題について、こうしなさい、ああしなさいとは言わないと…。

・その後
信者に対して、何も判断しないで、ただついてくることを求めているという。

・疑問
主体的に生きよと言いつつ、何も判断しないでついて来なさいと言うのは、おかしいのではなかろうか。

・参考
「虚業教団」によれば、初期のころに神託結婚があったという。ご託宣によって、男女が結ばれたそうだ。拒否した信者は、徹底的にこき下ろされて破門になったという。関谷さんにいたっては神託結婚だけでなく、神託離婚?もさせられたという。
主体的に生きよと言いつつ、結婚相手を指名して、それに従わないと破門にしたというのは妙である。



〈つづく〉