*つづき
「 幸福の科学の教義について思うこと(1) 」のつづきです。コメント欄に書いたものと、コメント欄に書かずにボツにしてたメモをまとめてみました。どちらも記事にまとめるにあたって補筆修正はしたけど、全体の趣旨は変えないようにした。
では、次からコメ欄等のまとめです。



*佐倉哲エッセイ集
教義関連の話題はないかと検索してたら、佐倉哲さんとこが出てきた。ネットをはじめた頃はよく見てたところである。退会の後押しにもなった。
「他の宗教に関する来訪者の声」で、HS信者を見た時はショックだった。それまでHS信者は、ごく一部に変わり者はいても、基本的にはレベルが高いと信じてたからだ。

・ブッダと大川隆法|佐倉哲エッセイ集



*HS信者による評価
信者による佐倉哲批判もあるようだ。

・大川隆法批判論|幸福の科学会員で教義上の疑問を解決したい
http://www.beach.jp/circleboard/ac86119/topic/1100096176104
・佐倉哲 批判 仏典と無我、信仰について( ´ ▽ ` )ノ
http://www.kininaru.blue/sakura-tetsu-criticism/
・「ブッダと大川隆法」への反論|一日一生 人生は1冊の問題集
https://plaza.rakuten.co.jp/otogibanasi/2001/
・佐倉哲批判(7)|一日一生 人生は1冊の問題集
https://plaza.rakuten.co.jp/otogibanasi/diary/?ctgy=2



*史的仏陀と、信仰対象としての仏陀
HS信者は、いわばエルカンターレ式の仏教を信じてるわけだし、仏典を読むにはかならずエルカンターレ式の解釈を加える。
一方、佐倉哲さんはといえば、仏典そのまんまだ。これでは意見が分かれるのも当然だ。
でも傍から見てると、「自分は、仏陀はかくかくしかじかの教えを説いたと信じている。これは歴史的事実だ!」というのは無謀に思える。
信者さんは、自分たちの仏教論は、大川隆法による仏教の再解釈であって、仏典に記された思想とも、歴史的人物としての釈迦が説いた思想とも必ずしも一致するとは限らないと思った方がいいのではなかろうか。
それに仏典の解釈は、突き詰めて行けば、原語の意味、背景などについての議論に入って行くことになるし、そうなるといわゆる仏教学者には負けると思う。
エルカンターレ信仰の維持のためには、自分たちは歴史的人物としての仏陀ではなく、信仰上の仏陀を求めてるという自覚は必要であるし、そうでないと両者が一致しないことに気づかざるを得なくなった時に退転の危険がある。



*新旧の比較
これは何度も貼ってる記事だけど、教えの変更が分かりやすくていいなあ。

●『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-241.html
●続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-242.html

●幸福の科学 教義面



*片山実験場
教義関連の議論は、ここでもよくあった。信者専用の第参掲示板だったかな。ありすさんはお元気だろうか。

・【ザ】+☆+KKⅦ+☆
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/6228/1119480892/
・【ザ・法論】+☆+KK8+☆+【論戦2日目】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/6228/1137866842/
・KK総合サイトをめざす実験場
http://happiness.lib.net/limited/index.html



*方便問題
いまだ解決されていない、方便に関連した問題は、210辺りから説明されてる。227でもわりと詳しく論点説明がある。
257では、シンフォーについても指摘されてる。
総裁は、1981年の段階で、高橋信次の正体を把握していた。でもその後、天台智(霊)は、総裁たちが高橋信次の本で出てきたシンフォーを信じていたので、それに合わせてシンフォーを名乗って出てきたそうだ。
総裁は高橋信次の正体を知り、その指導霊のシンフォーのレベルも承知してたろうはずなのに、天台智(霊)はわざわざシンフォーを名乗って出てきたと…(笑)。

・【ザ】+☆+KKⅦ+☆



*憑依と結界

・当初
心の波長が、地獄に通じることによって、地獄霊に憑依されるとしていた。ようするに、波長同通の法則によって憑依が生じるということ。

・その後
HSの本、ペンダント、結界などによって身を守ることができるとされた。

・疑問
波長同通の法則からすれば、心の波長を整えることが大事であって、それができなければ法具、まじないに頼ってもダメなのではなかろうか。法具、まじないで憑依を防げるというのは妙である。

・可能性
低級霊には、まじないを信じているものもいる。そういうものは、お札を見れば、その先には行けないと自己暗示にかかることもある。
また法具等は、高次元の光を放っている。これによって悪霊を寄せ付けないことができる。

・感想
霊界では、波長が異なっていれば、霊人同士で体が重なっても気が付かないという。四次元、五次元などは離れた場所にあるのではなく、同じ場所にあるけれども、波長が異なるので互いに干渉することはなく、互いの存在を認知することもできないという。
そうであれば、法具等が高次元の光を放っても、次元の異なる地獄霊には何らの影響も与えることはできないのではなかろうか。



*謙虚と傲慢

・当初
謙虚であることが大切であり、傲慢ではいけないとされていた。高級霊は謙虚だが、地獄霊は「我こそは××大菩薩なるぞ」と威張ったりするとも…。

・その後
教祖は、自分は仏陀だと言い始めた。国師、ワールドティーチャーであって、すごい影響力を持っていると自画自賛も多い。最近では、自分のことを根本仏、創造主としているらしい。
イエスの悟りが、手の平の上に見えたという発言もあった。

・疑問
謙虚であれと言いながら、自分自身はそうではないようだ。これはおかしいのではないか?

・弁護
仏陀だから仏陀だと言っているだけである。単に事実を言ったまでである。
謙虚さは大切ではあるが、仏陀であるのに、仏陀でないと嘘をつく必要はない。

・感想
多くの人々から、「あなたこそ、真の仏陀だ。仏陀宣言をしてほしい」と懇願されたときに頷いてみせるならともかく、自分から「私は仏陀だ。私に帰依せよ」というのは、おかしいのではなかろうか。



*偉大なる霊能者というけれど…
教祖は偉大なる霊能者だという。でも、やることは、いつも同じだ。言語中枢を通した霊言ばかりである。
これに比べて、交霊会が盛んだったころの霊媒たちは、実に様々なことをしている。エクトプラズムで霊を実体化させたり、テーブルを持ち上げたり、交霊会の出席者の求める霊人を呼び出して霊言をし、後でその内容が真実だと分かることもあったという。
また、科学者の心霊実験に応じる霊媒も少なくなかったようだ。パイパー夫人などは、トランス状態のときは、ペンチで挟まれて、痣が残るくらいに痛めつけられても目ざめなかったともいう。
教祖は、偉大なる霊能者というわりには、どうしていつも同じようなやり方の霊言しかやらないのだろうか。



*帰依すべき法とはどのようなものだろう?
帰依すべき法とは、どのようなものだろう。教祖の説く教えのことだろうか。とすれば、教祖の教えには、矛盾はあるし、方便もあるし、改定もあるし、一体どれに帰依したらいいのだろうか。
とある信者は、最新の教えに帰依すればよいと言っていた。
でも、教えに新旧があるならば、それは永遠に変わらない真理ではないことになる。永遠に変わらない真理でなければ、それは法ではないだろうし、そんなものに帰依するのはいけないことではなかろうか。
法でないものに帰依することは、神でないものを神だと言い張るのと同じくらいに、間違ったことではなかろうか。
HSでは、あれは古い教えだとか、これは新しい教えだとか言うけれども、これはHSでは永遠の法が説かれていないことを示しているように思える。



*エル・カンターレとは何か?

・当初
エル・カンターレは9次元霊とされていた。
エル・カンターレは9次元霊であって、その一部は釈迦として地上に生まれたが、その本体は今、大川隆法として地上に生まれたのだと。

・その後
エル・カンターレ(大川隆法)は、9次元霊ではなく、13次元だとか、14次元とかの存在だと言われるようになった。昨今は、根本仏とされているらしい。これは20次元以上ということだろうか。

・疑問
大川隆法を、主とするのは無理があるのではないか。主が選挙に落選したり、離婚したり、予言が外れたり、芸能人の霊言をしたりするのは何かおかしい。

・可能性
一説によると、エル・カンターレは天上界では全能であっても、地上で肉体を持つと全能ではなくなり、失敗することもあるという。

・感想
肉体を持つ、持たないに限らず、どんな条件下であっても、全能であってこそ、本当の全能だろう。肉体を持ったら、能力を発揮できないのであれば、全能ではないと思う。
また大川隆法が批判されているのは、肉体的に万能でないからではない。人格、徳だとか、精神性に関してである。
高級霊は高次元では高潔でも、肉体を持つと品格に欠けるということは有り得るのだろうか。別れた妻の口が臭かったと悪口を言ったりするのだろうか。



*神光物理学
『黄金の法』だったろうか。神光物理学(仏光物理学)という説明があった。名前から分かる通り、霊的なことを物理学的に説明する試みであるらしい。
普段は、この世の問題を霊的に考えることを奨励しているのに、霊的なことを物理的に解釈、説明するというのは矛盾しているのではなかろうか。
HSでいうところの霊とは、結局、物質の延長にすぎないのだろうか。
この辺りのことは、下の記事にも書いてみた。

●霊魂と物質の関係とは? (霊の存在を信じても、唯物論からは逃れられないかもしれない)|楽山日記



*外国の霊が日本語で話すことについて

・当初
外国の霊が、日本語で霊言する理由について、大川隆法の言語中枢を通して霊言しているからだとされていた。
このことを証明するかのように、初期の霊言では、外国の霊ははじめは自国語でしゃべり、大川隆法の言語中枢を使うことに慣れるにしたがって日本語に切り替えていた。

・その後
近頃の霊言では、日本語ばかりであり、時々は英語などはあっても、それ以外の言語はほとんどなくなったようだ。

・疑問
当初の設定からすれば、霊は地上で使っていた言葉を使うことに困難はないようだ。むしろ総裁の言語中枢を使って日本語で話すより、その方が楽らしい。
昨今のようにビデオを公開するなら、こちらの方が真実性が高まるだろうに、どうしてそうしないのだろう。

・可能性
対話者や聴衆の使用言語に合わせて、日本語で話しているのだろう。

・感想
初期の高級霊たちは、善川三朗に合わせて日本語を話そうとしても、言語中枢を使えるようになるまでは、古代語などで話さざるを得なかったようだ。最近の霊言ではこういう場面がないのはやっぱり不思議だ。



*誰のための方便だったのだろう?
高橋信次霊を9次元のエルランティとしたのは、方便だったという。でも高橋信次霊らが教団乗っ取りを画策したので、方便は取りやめて、エルカンターレ信仰に統一することにしたのだという。
これと同じようなことは、きょう子さん、種村さんに関しても起きている。
きょう子さんが文殊菩薩だということも、種村さんが舎利弗だということも方便であって、その弊害が起きてきたので、方便は取りやめることにして二人は教団から除名したらしい…。
思うに、方便というものは相手のために活用するものだろう。相手を正しく導くために使うものだろう。
でも上の方便は、高橋信次霊のためにも、きょう子さんのためにも、種村さんのためにも、そして一般信者らのためにもなっていないように思える。
これらの方便は一体、誰のためのものだったのだろう?



*信と愛

・当初
愛は与えるもので、奪うものではないとされていた。

・その後
教祖は「信じよ、信じよ、我を信じよ」と繰り返すようになった。

・疑問
愛は与えるもので、奪うものではないとすれば、「自分を信じよ」と繰り返し求めるのはおかしい。これは奪う愛ではないか?

・参考
「人生の王道を語る」だったろうか。“信”について、人から信頼される自分になることを説いていたと思う。与える愛の見地からは、相手に自分を信じるように求めるのでなく、相手に信じられる自分づくりに励むのが正しいのではなかろうか。



*法身信仰論
帰依すべき仏とは何だろう。仏陀再誕では、地上の仏陀(大川隆法)に帰依すべきとしていた。
けれどもその一方で、信仰対象はあくまで天上のエルカンターレだという意見もある。その理由は、地上のエルカンターレ(大川隆法)は肉体的制約があって間違うこともある。でも天上のエルカンターレは肉体的制約はなく、全知全能だからだという。
帰依すべきは、地上のエルカンターレである大川隆法か。それとも天上のエルカンターレか。どっちだろう?



*仏法と自由
この宇宙を統べる法があるという。すべてがその法によって運行されているならば、人はその法の外に出る自由はないことになる。
人の思惟、行動のすべてが一定の法則の下にあるならば、自由の否定だろうし、決定論に行き着くと思う。



*進化論について

・当初
高級霊がその思いによって、まずは単純な生物を創造し、それを少しずつ複雑な仕組みに進化させたとしていた。
エルカンターレは人類創造を試みたが、うまく行かなかったので、他の星から人類(エルランティらの一団)を招いたともしていた。

・その後
進化論はまちがいであり、エルカンターレが人類を創造したとした。
現在の地球に住む動物のなかには、宇宙人が退化したものもいるそうだ。

・疑問
当初は、生物ははじめから今の形だったのではなく、徐々に今の形になったとされていた。つまり進化を認めていた。
でも今は、進化を否定し、人類ははじめから人類として創造されたとしているらしい。でもその一方で、宇宙旅行するほどだった宇宙人が、退化して動物になったともしているそうだ。
これは支離滅裂になってしまってるように思える。



*菩薩界にもウラはある?
6次元以上には、天狗仙人が住む世界があるという。俗にいうウラである。
でも、7次元は愛の世界だというし、そこに利己的な傾向が強い霊が住む世界があるというのは妙である。
7次元はすべてが愛に満たされているわけではなく、オモテは愛があるが、ウラはその限りでないのだろうか。
としたら、7次元は愛に欠けていても入って行けることになり、愛の世界ではないことになる。
この辺りは分かりにくいように思う。



*HS教義は判断基準となり得るか? 1
神の光は七色に分かれ、時、場、人などに応じて表現されるという。
とすれば、赤の教えに反してたとしても、白の教えでは間違いではないこともあるのだろうか。
HSの教え(黄色の教え?)に反しても、他の色の教えでは良しとされることもあるのだろうか。
もしそうであれば、HSの教えは、絶対的な判断基準にはなり得ないことになる。



*HS教義は判断基準となり得るか? 2
もしもHSの教えが、神の光が七色に分かれる前の金色の教えだとしても、結論は同じである。
HSの教えは、金色の教えそのものではなくて、金色の教えを日本の現状に合わせて、日本語に翻訳したものだろう。
そうであれば、両者の間には誤差があるだろうから、日本の現状に合わせて日本語で表現された金色の教えに反したからといって、金色の教えそのものにも反しているとは必ずしも言えなくなる。
やはりHSの教えは、絶対的な判断基準となり得るとは言えないかもしれない。



*HS教義は判断基準となり得るか? 3
神の教えは、さまざまに表現されるが、その本質をつかむならば、判断基準として有効なものとなるかもしれない。
でも、神の光が七色に分かれるのは、9次元である。そうであれば七色の教えの本質をつかむには最低でも9次元の悟りが必要となるのではないだろうか。
また、一説によると根本神は20次元以上の存在だという。とすれば神の教えの本質を、本当につかむには20次元以上の悟りが必要になるかもしれない。
こう考えると、HSの教えが高度であればあるほど、この上なく高度な悟りを得ている人でなければ、正しく解釈し、正しく活用することはできないことになり、一般人にとっての日常的な行動指針とはなりえないことになりそうだ。



*過去に生まれ変わることはできるのか?
霊界では、現在、過去、未来が同居しているような話を聞いた覚えがある。そのときは、生まれ変わりは、現在だけでなく、過去や未来についても可能なのだろうかと思ったものだった。
我ながらバカバカしく思えるが、霊人それぞれが自分の時間を持っていてその中で生きているだけならまだしも、霊界では過去、現在、未来が同時に存在しているのならば、霊界を通って過去や未来へ行くタイムマシンはできないのだろうか? もし霊界を通って時間旅行が可能なら、過去や未来に生まれ変わることもできるのではないか? などと考えてしまったのだった(笑)。
過去に生まれ変わるというのは、現在や未来を変えるということだけれども、最近のHSは、パラレルワールドに肯定的のようだし、この辺りのことは大した問題にならないのかもしれぬ(笑)。



*肉体の限界が、魂の限界なのか?
高級霊は巨大であって、そのすべてが人間の肉体に宿ることはむずかしいとされていた。だから高級霊が地上に生まれるときは、その一部だけが肉体に宿ることになるのだと…。
とすると、エルカンターレの本体が、地上に生まれたといっても、それは本体のすべてではなく、本体の一部…人間の肉体に入ることができるほどの極々一部にすぎないのだろうか。
信者の中には、エルカンターレであっても肉体に宿ると間違うこともあると言う者もいたけれども、大川隆法に入っているのはエルカンターレの本体の極々一部…いわばキレッパシにすぎぬとすれば、これも一理あるかもしれない。
でもエルカンターレの本体といえば、エルカンターレのもっとも奥深い中枢部分でもあろうし、そこが間違うこともあるというのは妙ではある。
こういう解釈は、いわば人間の魂の最も奥深い中枢に存する仏性も間違うことがあるというのと同じくらいに、おかしいことである。



*高級霊の記憶力
当初は、霊格が高まるほど、より遠い過去を思い出せるとしていた。四、五次元の霊では前世、前々世くらいしか思い出せなくとも、高級霊ともなればもっとずっと前の前世の記憶を保持していて、九次元ともなれば創世記の頃までも思い出せるなど…。またある程度以上であれば、アーカシャ―の記録を参照することもできるとか。
でも高級霊の霊言を読むと、一つ前の前世の記憶でさえも不正確だったりする。前世についてあえて沈黙するなら分からなくもないが、間違ったことを言ったりするのは、なぜだろう?
霊の存在証明としての霊言で、事実誤認が繰り返されているのは、なぜ?
これについては、霊言は嘘だとすればあっさり解決するが、霊言は真実だとすればなかなかに難しい問題のようだ。



*霊界における知性
現世では、10パーセントの表面意識しか使われていないという考え方があったと思う。このことから、人は死んで霊になった場合は、10パーセントの表面意識に加えて、90パーセントの潜在意識も活用できるようになるから、知性は飛躍的に高まるのだと…。
でも高級霊の霊言を読むと、生前よりも知性が劣化しているものが少なくない。地獄霊の知性が、生前より劣っているなら分からなくもないが、高級霊がそうなるのは妙である。高級霊が、地上にいたときの専門分野についてさえ、十分に語れなくなったりしているのはなぜだろう。
これも上の疑問と同じように、霊言は嘘だとすれば、霊媒役の知識の範囲内でしか語れないのだろうということで、すぐに結論はでるが、霊言は真実だとすればややこしい理論が必要になりそうだ。



*反省の効果

・当初
過ちを犯したとしても、反省によって許されるとしていた。反省の涙によって、罪は許され、心は清められるとか、想念帯の該当部分が黄金色に変わるとか。

・その後
反省によって、過去の過ちはなかったことになるとか、過去は改変されるとか、そのようなニュアンスの発言が散見される。

・疑問
反省によって、過ちは許されるというのと、過ちはなかったことにされるというのとでは、話が全然違ってくるのではないだろうか。前者であれば理解できなくもないが、後者は都合よすぎるような気がする。
正確性よりも、詩的な響きを優先して、「過去は変えられる」としているのかもしれないが、もしそうであれば、この表現は法を曲げることとさして変わらず、よくないように思う。



*悪の発生原因
HSでは、悪の発生原因として、自由と自由の相克だとか、自由の履き違えだとか、そういうことを言っている。
思うにこれは、悪の一例ではあっても、発生原因とは言えないのではないだろうか。
たとえば、悪因悪果からすれば、悪の因があってこそ悪果がある。とすれば、自由と自由の相克とか、自由の履き違えという悪が発生するには、それを発生させる悪因があったはずである。ここを明らかにしなければ、悪の発生原因を突き止めたとは言えないと思う。
とはいえ、悪因悪果という考え方からすると、悪の連鎖は無限に続くということになりそうではある。悪が生まれるには、それに先立つ悪があり、さらにそれに先立つ悪があり…という具合である。因果律を真実とする限りは、悪の根本原因を見つけることは不可能のような気がする。この辺りについてHSではどう考えるのだろうか。



*悪はどこから来たのか?
HSでは、神は善であり、悪は持たないことになっていたと思う。そしてそういう神が、善きものとして人を創造したのだと。
これだと、人が自由の履き違えなどをして悪を為す理由はどこにもなくなるのではないだろうか。
善き神が、善きものとして人をつくったなら、人は悪因を持たずに生じたわけである。悪の種を持たなかったのである。それなら悪を為すことはできないだろう。仮に自由を与えられたとしても、悪の種を持たないなら、自由を悪用する因縁は一つもないのである。自由の履き違えだとか、自由と自由の相克などの悪を生む原因を持っていないのである。
神は善であり、人は善きものとしてつくられたということと、因果律とを基本として考える限り、悪が生じた理由を説明するのは無理のように思える。



*人は神の子か? 被造物か?
HSでは、人について、神の子と言ったり、被造物だとしたりしている。神の子と、被造物とでは、全然、意味が違っているが、一体どちらを真実だとしているのだろうか。
人は被造物だが、神の養子となることで、神の子となるというのかな。どうなんだろう。



*この世とあの世を貫く幸福
当初は、この世とあの世を貫く幸福をうたっていた。この世とあの世、どちらか一方にいるときだけ幸福になるというのではなく、どちらでも幸福になることを目指していた。
でもこの頃は、代償の法則を語っているようである。何かを得るには、その他のものを失うのも止むを得ないというような考え方である。
これは、この世とあの世を貫く幸福とは、方向性がちがうし、矛盾しているのではないかと思う。



*家庭ユートピア
当初は、家庭ユートピアの大切さを説いていた。また夫婦というものは、赤い糸で結ばれているものだとしていた。夫婦になる男女は、この世に生まれてくる前に、霊界において、「この世で夫婦になろう」と約束してから、生まれてくるのだと。だから伴侶というものは、とても大切なのだと…。
さらには、自由恋愛というものは、本来は他の人の伴侶となるべき人と関係を持つことにもつながりかねないので、慎重であるべきことも説かれていたと思う。
でも、『YOUNG BUDDHA』(vol.45)に掲載された恋愛論では、大分ちがっている。たとえば次のような一文がある。
家や車を何回も買い替えたり、いろいろなものをリサイクルしたりする時代に入っているので、そのような経済感覚を持っていると、男女の関係においても、同じような考え方が出てくるのは当然だと思います。
ここでは、車を買い替えるように、伴侶を変えることを批判するのでなく、そのようなことを「当然」と理解を示している。
また、アメリカなどの成功者を例に、次のように語ってもいる。
ミリオネア(百万長者)になった人は、たいてい、最初の妻と離婚して二番目の妻をもらいます。二十歳ぐらい年下の若くて知的な美人と再婚するのです。なぜかというと、妻は成功のシンボルだからです。アメリカではパーティーをよく開きますが、どんな妻を連れているかで社会的地位が分かるため、その成功相応の人に替えるわけです。
「この世における立場の変化に合った相手を選ぶ」という考えも、一つの合理的な考えであるとは思います。
ここでも、伴侶のことを、ものか何かのように考えることに、一定の理解を示している。
とはいえ、そのような行き方には、一定の留保はついてはいる。
ただ、生まれる前のことや、死んでからあとのことなど、霊的な面を考えると、それだけでは少しさみしい気もします。
かつての教えから行けば、「こんなことは霊的にも、道徳的にも間違いです。成功する前から自分を支えてくれた糟糠の妻に感謝し、仲睦まじく暮らして行くのが本当です」と断言しそうなものだけれども、そうはしないで、「少しさみしい気もします」と言うに留めているのは、なぜだろう。この辺りの方針転換はちょっとよくわからない。



*一段落
以上、おもに教義上の疑問について、まとめてみました。教義と実態について書いた箇所もあるけれども、それは意識的に抑制するように努めたつもりではあります。「言ってることと、やってることがちがう」という方面に行くと、きりがないので…。
時間をおけば、もっといろいろな論点を思い出せそうではありますが、とりあえず今回はこれで一段落ということにしておきたいと思います。〈了〉