『近思録』を読み直していたら、次の文章を見つけた。

ある人が、こう言いました。「仏教で地獄の話をするのは、すべて性根の腐った連中を改心させるためです。地獄の話で相手を恐れさせて、相手に善を行わせるのです」と。それに対して先生は、こう言いました。「天地をつらぬくほどの至誠をもってしても、なかなか改心しない人がいるというのに、ウソの教えなんかで、どうして人を改心させることができるでしょうか」と。 
(『近思録 -朱子学の素敵な入門書-』編集朱熹 呂祖謙、訳解福田晃一、明窓出版、平成10年、p.417)

これは大いに共感できる考え方だ。どうも自分はこういう考え方がすきのようである。なぜそうなのか、つらつら考えてみるに、その理由は三つほどあるようだ。

まず一つは、何のことはない、生来の感覚である。自分は智謀に優れた軍師に憧れることもあるが、それ以上に、何らの策を弄することもせず、ただ至誠あるのみという生き様にも魅力を感じる。こういう生き様には、なんだかよく分からないが胸が熱くなるのだ。
ふと思い出したのだが、伊藤痴遊の『西郷南洲』に、官軍が江戸に迫るなかで、鉄舟が西郷に会いに行こうとする場面がある。そこで海舟は鉄舟に、相手は西郷だから十分頼むと念を押すが、鉄舟は相手が誰であろうとただ至誠あるのみ、と答えるのだ。自分はこういうのがすきである。

二つ目は、一応、理屈を言うならば、方便よりも至誠の方が、礼にかなっているからである。
方便は嘘によって相手を一定方向に誘導しようとすることであり、相手が主体的に判断する機会を奪っている。また相手のことを、正しい選択ができない未熟者だというように一段下に見ているところもある。
でも至誠の方は、相手を信じ、真摯に向き合おうとしている。相手を見下すことはせず、敬意をはらっている。こうみると、どちらが礼にかなっているかはいちいち論じるまでもないことではある
ちなみに、方便については、以前、「嘘も方便というけれど…」で書いたことがある。

三つ目は経験である。自分の経験では、相手をよくするためにはここは厳しくした方がよさそうだとか、ここは黙って見守るべきだとか、さまざまに考えた上で行動したときは、それが裏目に出ることが少なくなかった。
でも、余計なことを考えることなく、自分に正直に行動したときは、不思議と良い結果が出たように思う。必ず良い結果が出たとは言わないが、あれこれ考えて行動したよりも、さして考えることなく、ただ良心に従った方がよかったことは確かではある。

自分は、大体、以上のような理由では、方便よりも至誠の方が尊いと思ってる。人に対しては、方便を用いるより、至誠で向き合いたいと思ってる。世の中には、「あなたのために…」という名目による嘘、ごまかしは少なくないけど、もっと真実を貴ぶ習慣が広まればいいのになあと思う。

ちなみに、『近思録』では、他の箇所でも「誠」について触れている。その中には、たとえばこんなものもある。

人を動かすことができないのは、ただ誠が十分ではないからです。
 (同上、p.213)

これはすごく反省させられる言葉である。自分の意見がなかなか理解されないときには、ついつい相手のことを分からず屋だと言いたくなるものだけれども、本当はそれではいけないのだろうなあ…。よく言われることだけども、人を責めるまえに、自分の至らなさを反省せよというのは本当だと思う。〈了〉