宗教の信者を止めてよかったこととは何だろう。いろいろあるけれども、一番はじめに思い浮かぶのは、おかしいことはおかしい、信じられないことは信じられないと言えるようになったことだ。

信者だったころは、教団のやり方に疑問をもっても、おかしいとは言えなかった。教祖の言動に不審があっても、信じられないとは言えなかった。そういう気持ちは、心に思うだけでも悪だとされていたからだ。

でも信者を止めてからは、そういう戒めからは解放された。おかしいことはおかしい、信じられないことは信じられないというように、自分の気持ちに正直でいてもよいことになった。これは本当によかった。

聞くところによると、虐待された子供のなかには、嫌なことでも嫌だと言えなくなるケースがあるという。些細なことで暴力を振るわれ続けると、何をするにも相手の顔色をうかがわないではいられなくなり、自分の気持ちを率直に表現できなくなるらしい。

ひょっとしたら信者だった自分も、これと似た精神状態になっていたのかもしれない。自分の信じていた宗教では、教祖、教団を疑えば、悪霊悪魔に取りつかれて地獄に引きずり込まれるという教義だったので、自分の心に教祖、教団に対する疑問が浮かぶ度に怖くてたまらなかったのだ。これは四六時中ゲンコツが飛んでくるのを恐れている子供の状態と似てるのではあるまいか。

こういう恐怖心から解放されたという点については、宗教をやめることができたのは本当によかったと思う。〈了〉