信者だった頃、「この宗教はおかしい」と気づきながらも、長い間、棄教できなかったのはなぜだろうと考えてみると、結局、プライドのせいだったのかなあと思う。

いったんは信じた宗教をやめるということは、自分は宗教の選択をまちがったことを認めることである。つまり自分は、本物を見抜く眼力はなかった、カルトに騙された愚か者だということだ。

これを認めるのがつらくて、「この宗教はおかしい」と感じつつも、きっぱり止めることはできなかったのである。

でも最終的には、いつまでも強情は張れなくなり、自分は愚かだった認め、宗教をやめるしかなくなった。

反省して自分の愚かさを認めたのではなくて、悪あがきするのに疲れて自分の愚かさを認めざるを得なくなったというのは残念ではあるが、とにかく棄教はできたのはよかった。

信仰とプライドとは、一見したところでは、正反対のものに見える。信仰心の篤い人は謙虚で、プライドに固執したりはしないという風に…。

でも信仰の裏には、選民思想が隠れている場合もなくはない。たとえばカルトの中には、信者のことを霊的エリートだとか、選ばれし者だとか、露骨にプライドをくすぐるところもある。

この辺りのことは、第三者の立場から見ていれば容易に気が付くことではあるが、その渦中にあった自分には中々分からなかったのは残念である。今後は気を付けたい。