児童虐待のニュースを聞くたびに、何でこんなことが起きるんだと腹立たしくなったり、憂鬱になったりするけれども、『カラマーゾフの兄弟』でもそれに関連した議論があった。

イワンは酷い児童虐待の例をいくつも示した後で、その宗教的な意味についてアリョーシャに問いかけている。
もっとも、こういうばかげた話がないと、地上の人間はどうにも生きていかれない。なぜって善悪の認識ができなくなるから、などとほざいている連中もいるにはいるがね。じゃあ、これほどまで犠牲を強いるものなら、いったいなんのために、このくそいまいましい善悪など認識しなきゃならないんだ?  
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.238)
これは確かにその通りのように思う。さらにイワンは、児童虐待についての次の宗教的な見解も強く非難してる。
 人はみな、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する、どうだ、ひとつ答えてくれ? なぜ子どもたちは苦しまなくちゃならなかったのか、なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のために人は柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか?
 人間同士が、なんらかの罪の連帯責任を負うというのは、おれにもわかる、復讐の連帯責任ということだって、おれにはわかる。だが子どもたちが罪の連帯責任を負うというところは、おれはわからない。
(同上、p.244)
この世の不幸や悲劇について、自分はキリスト教ではどのように解釈しているのかはよく知らないが、自分が知っている某宗教について言えば、霊性を磨くためだとしていたのだった。この世は魂修行の場であって、この世における様々な経験はすべて魂の糧となり、霊性を磨くための砥石となるという考え方である。

また因果応報、前世のカルマという解釈もあった。禍はその者の罪の報いだという考え方であって、昔からよくあるやつだ。さらには人知のおよばぬ神の壮大な計画のためという考え方もあったように思う。

この世の不幸や悲劇の原因や、受け止め方については、この他にもいろいろな見解があったように思うが、いずれにしても大人が犠牲になる悲劇ならともかく、子供が犠牲になる悲劇に対しては、どれも全然説明にならないことばかりのように思える。

児童虐待など、子供が犠牲になる悲劇について、霊性の向上のためだとか、自身の罪の報いだとか、神の計画の一部だとか、そんな説明によって納得できる人はいないだろう。というか、人としてそういった説明で納得してしまってはいけないような気もする。

さらにイワンは次のようにアリョーシャを問い詰めている。
いいか、かりにおまえが、自分の手で人類の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのいっぽけな子をなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなくてはならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもので、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、嘘はつくな!」
「いいえ、しないでしょうね」アリョーシャは静かな声で答えた。
(同上、p.248)
どんなに善いことのためであっても、それを実現させるための犠牲として子供を選ぶことはできないというのは人としては当たり前の感情だろうし、そうであればアリョーシャの答えは当然だと思う。

でもそうすると、このあとはイワンと同じ結論に達せざるを得なくなり、これは神様を信じたい者からするとつらいことになりそうではある。この場合、神様を信じたい人はどうしたらいいのだろう。

うーん。信仰者としては、イワンの疑問については、論理としても、情緒としても納得できる宗教的な見解を成立させるのは困難だろうし、そうであればこの問いは棚上げして沈黙し、祈るほかはないかもしれないなとは思う。