*人を許したいひと、神は鏡にうつった自分
各人が持っている神のイメージは、自分自身をうつす鏡なのだろうと思うけれども、『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェニカも、それっぽいことになってる。
わたしがもし神さまだったら、みんなを許してあげるわ。『わたしの愛する罪びとたち、今日からみなさんを許します』って言ってね。で、わたしはちゃんと許しを乞いに行きます。『みなさん、どうか、この愚かな女を許してください』って。
(『カラマーゾフの兄弟3』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.321)
人が「神とはこういうものだ」と言うときは、グルーシェニカと同様に「わたしが神だったら、こうする」と言ってるのに過ぎないんだろうな、たぶん。

人が、相手の心を想像して、「彼はこう思ってるに違いない」と言うときは、自分の心を相手にうつしているにすぎないという見方があるけど、「神はこう考えるに違いない」という場合も、それと同じ構図になっているんだろう。

で、自分がもし神さまだった場合はどうかといえば、とてもじゃないけど、グルーシェニカのようにはできなそうではある。グルーシェニカの言うことはひとつの理想だけど、自分にはなかなか難しそう。


*人をゆるす努力?
ただ、アリョーシャはそういうことをすでに実践してはいるらしい。前の記事にも貼ったことだけど、作中にはアリョーシャについてこんな記述がある。
アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。
(『カラマーゾフの兄弟1』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳、光文社〈光文社古典新約文庫〉2007年、p.46)
ここを再読してみると、ひとを赦したことで、「もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあった」という箇所は興味深いものがある。

自分は、「恨み心で恨みは解けない」という考え方を、ちょいちょい聞かされてきたので、人を恨んだり、裁いたりすることを止めてゆるしてこそ幸福になることができるというイメージを持ってる。だから、人を赦したことで、「ひどく悲嘆に暮れる」結果となるというのは分かり難い。

人をゆるしても、悲嘆に暮れるものなのかな。それとも、アリョーシャは本当には人をゆるせてないから悲嘆に暮れたのかな。

でも訳文を読んでいると、ゆるすことについては、神が赦す、人が許すと使い分けているっぽい雰囲気はあった。とすると、グルーシェニカは「許す」で、アリョーシャは「赦す」となってるから、アリョーシャのそれは神寄りのようであるし、きちんとゆるせてないというわけではなさそうでもある。

やっぱり著者の考えは、人を心からゆるせても、それによって心は平安になるわけではなくて、「ひどく悲嘆に暮れる」ことにもなりえるということなのだろうか。

うーん、やっぱりよく分からない。この疑問はとりあえず棚上げかな。この手の疑問は、忘れないでいれば、そのうちに答えは見つかるだろうと思うので。