*おもしろそう
タイトルからはどんな作品かは見当がつかなかったが、作者は辻村深月で、本屋大賞ノミネート作品とのことだったので、きっとおもしろいにちがいないと思い、読んでみた。

結果はといえば、ものすごく泣かされる切ない作品だった。家族、きずな、信じることについて、いろいろと考えさせられた。


*全体の流れ
大雑把にいえば、前半と後半に別れるようだ。

前半は、子供に恵まれず、養子を迎えて育てている女性(佐都子)の話である。佐都子は夫ともに不妊治療を受けるが、なかなか期待通りの結果はでなくて、養子をもらうことにする。その数年後、しあわせな家庭を築きつつあるときに、不審な無言電話がかかってくる。

後半は、妊娠、出産をした少女(ひかり)の話である。ひかりは中学生であり、産んだ子供は養子に出す。その後は、ふつうの学生生活に戻るものの、同年代の友人たちには馴染めず、両親との関係もうまく行かず、家出をする。紆余曲折を経て、住み込みで新聞配達をはじめるが、やがてやっかいなトラブルに巻き込まれる。

文章の視点は、佐都子、子供、ひかりというように移動があるので、その部分は少し戸惑ってしまったが、かまわず読み進めていると、すぐに慣れたのでよかった。


*話し合い
作中で、印象深かったのは次の部分だった。
血のつながりに甘えたからこそ、自分たちは大事なことを言葉で話し合ってこなかった親子だった。
(辻村深月『朝が来る』文藝春秋、2015年、p.131)
これは養子をもらうことについて、実母が頭ごなしに反対してきたときの佐都子の気持ちである。この種のことは現実にもよくあると思う。

あうんの呼吸を尊ぶ文化の影響だろうか。「いちいち言わなくても、わかってくれるだろう」という期待は、血のつながりがある、なし関係なく、あらゆるところで見られるものだ。

でも現代社会は、いつも同じ相手と、同じところで暮らすというわけにはゆかず、流動性があるし、個人主義が行き渡っていて価値観の共有は難しくなっている。こういう状況ではもはや、「言葉に出さなくても分かってくれるはず」というのは通用しないのではないかと思う。

個人的には、あうんの呼吸が通じる関係には魅力を感じるけれども、それはあくまで理想にすぎず、現実ではないのだろう。少しさみしい気もするけれども仕方がない。

そういえば、記憶はおぼろげながらも、今野緒雪の「マリア様がみてる」でも、これと似た考え方は提示されていたように思う。水野蓉子さまが、不機嫌になると黙り込む癖のある小笠原祥子に向かって、言ってくれなきゃ分からないと注意したというエピソードだ。

それから、タイトルは失念したが、三浦綾子の小説には、元気のいい娘が、寡黙な男に対して、無口なのはサービス精神がない、相手への気遣いが足りないと文句をいう場面があったように思う。

こうしてみると、気持ちはきちんと言葉にして伝えた方がいいという考え方は、わりと普遍的なものなのだろうなあ。


*分かれ道
佐都子とひかりは、子供を介して接点はあったものの、まったくちがった人生をおくっている。一方は堅実な人生を送り、もう一方はやっかいな方向に引っ張られ続けている。

この原因はどこにあるのだろうと、あれこれ考えてみたけれど、どうも、大事なことを話せる相手がいたかどうかにあるような気がする。

佐都子は、わりと順調な人生を歩んでいるけれども、長いトンネルに入った時期もあった。でもそのときは一人ではなかった。大事なことをじっくり話せる夫がいた。夫婦で支え合って、トンネルを抜けることができた。

一方、ひかりはそうではなかった。ひかりの両親は、過干渉でありながらも、大事なことは話し合おうとしなかった。子供の携帯電話を盗み見るほど過干渉なのに、テレビでラブシーンがあると見て見ぬふりをするタイプだった。子供たちがいずれ経験するだろう恋愛について話すことはなく、むしろそういう難しい話は避けた。ひかりの妊娠が発覚してからも、ひかりの話をじっくり聞くことはせずに、自分たちで何でも勝手に決めてしまった。

ひかりは家出をしてからも、大事なことを話し合える人を探していたらしい。でも、よさそうな人がいても自分から一歩を踏み出す勇気を持てなかったり、見当違いの相手と関係したりして、結局、大事なことを話し合える人を見つけることはできず、そのうちに深い穴にはまりこんでしまった。

ひかりの物語を読んでいて、すごく歯痒い思いがしたのだけれど、その原因はこの辺りにあったのかもしれない。


*テーマ
作品を読んでいたときは、不妊治療、特別養子縁組の小説かなあと思ったりしたけど、読了してからは、上に書いたようにコミュニケーションがテーマだったのかなあという気がしてきた。

冒頭のエピソードは、子供の話を聞くことの大切さをうったえているようだし、無言電話のエピソードでは、無言電話の相手を非難して口を封じるのでなく、その話をよく聞くべきだったことを示しているのだろう。特別養子縁組のエピソードでも、人の話を真剣に聞くシーンはたくさんあった。この他にもコミュニケーションの大切さをしめす場面は、いくつもありそう。

でもこの作品には、それとはちがったものも入っているかもしれない。なんだかそんな気配がする。気のせいかもしれないけれど……そんな感じがする。でもこの辺りのことは、作者のインタビューや、評論を読まないとわからなそうだ。あとは時間をおいてから再読するとか……。


*タイトル
ところで、タイトルは、「朝が来た」ではなく、「朝が来る」となっている。

「朝が来た」であれば、つらい時期は過ぎて、明るい所に出たという感じだけども、「朝が来る」であれば、今はまだつらいけれども、もうすぐよくなるにちがいないという感じがする。希望を手にしたというのではなく、希望が近付いてきた状態。

ページを閉じたあと、二人は今後どうなるのだろうと気になっていたけれども、タイトルから想像すれば、あまり心配しなくてもよさそうである。もしかしたらこれとはちがう解釈もあるかもしれないが、とりあえず自分はよい方に考えておきたい。そうでないと夜、眠れなくなりそうなので。

著者の作品は、「凍りのくじら」「子どもたちは夜と遊ぶ」「ぼくのメジャースプーン」「名前探しの放課後」「スロウハイツの神様」など好きな作品はいっぱいあるけれど、本作も忘れられない作品になりそうである。ドラマ化もされているそうだから、ぜひ見たいと思う。