神は妄想か―無神論原理主義とドーキンスによる神の否定
 本書は、ドーキンスの『神は妄想である』を批判するものだけど、以前何回かチラ見し、今度また少し読んでみた。はじめて見たときは、ドーキンスの「神は妄想であって、存在しない」という主張に、真っ向から勝負を挑み、「神は妄想ではなく、存在する」と反論しているのにちがいないと期待していたので、ドーキンス批判に終始していて、神の存在証明を目指しているようではないと分かったときは肩透かしされた感じがしてズッコケてしまったのではあるが、ドーキンス批判の書と割り切って読めばけっこうおもしろい本である。
 まず著者は、ドーキンスは自説に好都合なことは針小棒大に拡大したり、特殊例を一般化して吹聴していながら、都合の悪いことは黙殺し、神学の理解は浅く、宗教に無知であるにもかかわらず断言、決めつけが多く、科学者であるはずなのに科学的な思考を捨て去っていてあまりに独善的にすぎるなどと、具体的な証拠と論理を示しつつ、ドーキンスの難点を指摘していてなかなかの説得力がある。
 さらにはドーキンスはあまりにも極端で攻撃的で独断的な言辞が多い無神論原理主義者のようになっているために、本来ならドーキンスを支持するだろう無神論者である科学者たちが、最も熱心な批判者になっている例が少なくないとか、ドーキンス批判の急先鋒になっているはずの知的設計者運動を支持し反進化論の立場にある者が、ドーキンスのおかげで無神論に距離をおく者が増えるのを期待できると皮肉交じりの感謝の言葉を述べている例を挙げたりもしている。
 いやはや、これではドーキンスも形無しである。ただ著者の主張を読んでいると、著者のイエス観、キリスト教理解にはやや首を傾げてしまうところも無くもない。たとえば著者は「ナザレのイエスは誰に対しても暴力を振るわなかった。彼は暴力を受ける対象にはなったが、暴力を行う行為者にはならなかった」(p.96)と書いているけれども、聖書ではそのようには語っておらず、イエスは神殿で屋台などを打ち壊し、商人らを追い出したとしているだろう。これは明らかな暴力であり、実力行使だと思うのだが、著者はそうではないという解釈なのだろうか。
 またイエスは別のところでは、いちじくの木を呪って枯らしたり、母親に親孝行とは言えないような発言をしたり、その他にもかなり厳しい発言も少なくないし、こういったエピソードからするとイエスは非暴力主義者の側面はあるにしても、必ずしもそれだけの存在ではなく、もっと深みがあり、そう簡単に「〇〇はしなかった」「××と考えていた」というように決めつけることはできない存在だったように思えるが、著者はどのように考えているのだろうか。
 著者の立場からすると護教的になってしまうのは致し方ないとしても、この辺りを読むと、自説に不都合なことは無視し、都合の良いことは膨らまして語るというのはドーキンスに限ったことではなく、著者についても言えないことでもないような気がしないでもない。というか、こういうことがまるで当てはまらない人なんていないのではなかろうか。他人を批判したら、自己紹介になってしまったというのはそう珍しくないことではあるし、自分も気をつけなくてはならないことではあるけど…。