神学部とは何か (シリーズ神学への船出) 佐藤優
 タイトルを見て難しそうな本のようにも思えたが、サブタイトルに「非キリスト教徒にとっての神学入門」とあるし、シリーズ名は「シリーズ神学への船出」としているし、自分でも通読できそうだと思い直して読んでみた。結果はおもしろく読めた。
 おもしろくとは当然ながら、笑えたという意味ではなくて、宗教心や知的好奇心を刺激されたという意味合いではあるけれど、考えてみれば神学についての著者の本は前にも読んだことがあるけれども、そのときもおもしろかったし、けっこうな満足感があったのだった。
 著者の語りは、神学の入口を紹介しつつ、その奥深さを感じさせ、また個人的な体験、思索、感想を述べたりしていて、読み進むうちにもういい歳で宗教や思想に対する関心も薄れてきているはずの自分であっても妙に神学への興味を掻き立てられてしまう。他の人はどうか知らないが、自分に関してはそうなってしまう。
 巷では、コップの中の争いのようなことを神学論争と言ったりするむきはあるし、神学にはどうでもいいようなことを細かい屁理屈を言って喧々諤々の論争をするものだというようなマイナスイメージも一部にあろうし、実を言えば自分もそういう見方をしていたのではあるが、著者の本を読んでいるとそれは偏見だということがよく分かる。
 どうも自分は神学は嫌いだとばかり思っていたのだが、実際は興味があり、すきなのかしれない。本書を読んでいると、そこで紹介されている神学書の全てを読破することは無理にしても、なるだけ多くの神学書の概要を知りたいし、さらっとでも目をさらしておきたいという願望は持たないではいられなくなってくるから不思議だ。

 ところで本書では、自分が前々から興味がある神義論絡みの話題も出てた。たとえば、「「そもそも、果たして悪は本当に存在するのか」という議論がある。「もし、悪がほんとうにあるなら、その悪を作ったのは誰なのか。神が悪を作ったということならば、その神はむしろ悪魔ではないのか」。これは神学や哲学の方で言うところの弁神論(神義論)の問題である。この問題もまだ解決がついていない。」(pp.132-133)などと…。この問い自体にも興味があるが、「まだ解決がついていない」というところも魅力的ではあり、ゾクゾクするほど興奮してしまう。
 また本書では、悪は実在するかどうかという議論については、「西方教会、あるいは欧米の一般的な理性が陥りやすいのは、「悪は善の欠如に過ぎない」という考え方である」(p.133)としている。この考え方は谷口雅春の本で読んだ記憶はある。本来は善のみが実在であって、悪は存在せず、それだから灯をともせば闇は消える云々と。これは上の考え方の谷口雅春流の表現だったのだろうか。
 さらに本書によれば、ギリシャ正教では上とは違った考え方をしていて、「「悪は悪であり、それが断固として実在しており、善の欠如などといったものではない」」(p.133)という考え方をするのだという。悪についてのとらえ方に微妙な差異があるという程度ではなくて、まったく正反対といえるほど違うというのは驚きでもあり、愉快でもある。
 ちなみに、最近ななめ読みした『日本思想論争史』(今井淳、小沢富夫編)でも神義論について触れてあった。キリスト教が日本に伝えられた時に、日本人側では「全能にして愛なる神が世界を創造したのならば、なぜ人を苦しめる悪が存在するのか、完全なるものから悪が生じるのは非合理ではないか」(p.128)などという批判があり、これはキリスト教側からすればアウグスチヌスのころからの「弁神論の基本に関する難問」だったという。
 またこの議論とは少々切り口は違うが、同書によれば日本人側のキリスト教批判では次のようなものもあったという。「少年は「処女性」をもたないゆえに男色は罪ではないという主張」とか、「人妻を奪うことは罪としても、未婚の女性を犯すことは罪ではないとする考え」(p.127)とか、神は産めよ増やせよとしたならば子を得るために第二の女を持つことは罪にはならないだろう等々。
 なんだかトンデモに思える理屈もあるけれども、とあるブログでイエスの言葉について心の中で姦淫をしたら実際に姦淫したのと同じだというのは人妻に対するものであって未婚女性に対してはその限りではないというような解釈を読んだことがあるし、とすれば上の主張は現代でも真面目に受け止められる部分もないとはいえず、トンデモだと笑ってばかりもいられないのかもしれぬ。

 どうも話が逸れたようなので、話を戻すと、自分が佐藤優の本を抵抗なく読めるのは、予定説に対する考え方がわりと近いためかもしれない。佐藤優はこう書いている。「私の場合は、もともと母体が日本キリスト教会というカルヴァン派の教団だったので、結局はカルヴァン的な発想から抜け出ることができない」(p.84)と。
 自分はカルヴァンのことはよく知らないが、それでも予定説の概要は聞いたことはあるし、理があるとも思えるし、この辺りが佐藤優の本の読みやすさにつながっているような気がしないでもない。またついでに書くと、自分は小説がすきであるが、小説には通常、伏線というものがあって、偶然に見えし事柄も後になれば実は偶然ではなかったという展開になるのが当たり前であって、その背景には運命論、決定論みたいなものがあったりする。
 佐藤優はさらに次のようなことも書いている。「人間誰しも、人生で一番最初に触れた世界観的な思想、つまり生き死にの原理を説く思想の刷り込みからは抜け出せないというのが、私の結論である。私の場合は、結局それはカルヴァン派的なキリスト教だったのだ」(p.84)と。
 ここも自分にはよく分かる心持ちがする。自分は日本的な無宗教で育ったせいか、その後いろいろな宗教、思想、価値観に触れて一時的に別のものにかぶれてしまったとしても、結局は生まれながらの日本的な無宗教に戻り、それ以外の学びや知識はみな生まれながらの日本的無宗教を補強強化することに活用されるという結果に終わっているようにも思えるので…。これについては良いとか悪いとかいろいろな正邪善悪の判断は有り得るだろうけれども、どうもその判断に関わらず、自分の場合はただそのようになる以外にはないようではある。