『妻と私』江藤淳
 著者とそのタイトルから、読めば苦しいほどに切なくなるに違いないと予測しつつも、それだからこそ読まずにはいられず手に取ってみたのだが、やっぱり思った通り苦しく切なくなってしまった。本書は、癌を患った妻を看取り、その間に著者である江藤淳自身も病を得て体調を崩し、葬儀の後は緊急入院することになるまでのことを、哀惜の念に満ちた静謐な文体で綴ったもので、それだけでも滂沱の涙をおさえることができないのだが、この後の著者の判断を思うとなおさら泣けるのだ。
 ただそうはいってもそれはそれとして、自分としては告知についての著者の考え方は疑問に思えたというのが正直な感想ではある。自分の勘違いかもしれないが、著者は告知をよしとする考え方だろうと思い込んでいたせいか、著者は妻には脆いところがあるとして告知はせず、周囲の人々もそれに同意し、末期患者本人だけが自分の置かれた状況を知らされなかったというのは意外でもあり、どうも釈然としないのだ。
 理屈としては、人は自分のことは自分で決める権利はあるだろうし、その決断をするための正しい情報を知る権利もあるだろうから、本人の自己決定権を尊重する限りは告知はしないという選択肢を選ぶことは出来ないはずではある。ただ人にはそれぞれ事情というものがあるから、本人が告知されるのは望まないときっぱり意思表示するか、それに準ずる言動があった場合は無理に告知することはできないだろうし、もし無理矢理にそれを断行したらそれこそ本人の意思を尊重しておらず、よくないということになるだろう。恐らくは『妻と私』は後者の例であるのだろうと推測はするけれども、読みようによっては自分には妻に告知することはできないという気持ちが、妻には脆いところがあるから告知はしないということに転化されたように思えるところもないではないし、そこは少し気になりはする。
 とはいえ、理屈では上のように考えたとしても、人情としては本人に自覚症状は少なく、告知された後でもやり残したことをやる体力もあり、意識は明晰で治癒する可能性を信じることができる状況であれば告知することは可能でも、最期の時が迫り、ベッドから起き上がることもできない状態になっているときにはそれを話題にすることはできなくなるのはしょうがないことではあるかもしれない。また仮に末期患者側が告知を望んだ場合でも、看取る側はそうではなく徹底的に告知を拒絶している場合もあるから、なおさらやっかいである。たしかキュブラーロスの『死ぬ瞬間』のどれかでは、末期患者が死を受容する段階にあり、死と死後について話したいと思っていても、その家族はまだそういう段階には達せず、それを話題にすることを強く拒絶するため、当該末期患者は死の前に言い残したいことがあってもそれを聞いてもらえず困惑しているという事例を紹介していたと思うけど、こういうすれ違いは決して稀な事例ではなさそうでもある。
 告知はされる側だけでなく、する側の問題でもあるし、また人によって、もしくは状況によって対応は180度変わることもあり、いついかなる場合もこうすべきという一つの答えをスパッと出すことは出来ないことでもあるので、やっぱり複雑で難しい問題だ。自分のことを考えても、今のところは「余命六ヶ月でも、今日か明日、長くても一週間という状況でも告知してほしい。最期が近づくほど苦しくなるだろうし、それならその苦しみがいつ終わるか、いつまで頑張ればいいかが分かった方がいいから、その時が近づくほど明確に教えてほしい」と思うものの、それは元気な今だから言えるのであって、本当に死期が迫っている状況においてもその考えは変わらないかと念を押されれば自信をもって頷けなくなるのだから仕方がない。
 江藤淳が告知問題、それから尊厳死などについて思索を深めていったとき、どのような考えに至るのか、それについての著作が出版されたらぜひ読みたかったし、その他の問題についても江藤淳はどう考えるのか知りたくなることは多々あるし、今はもうそれを望んでも致し方ないことであるとはわかってはいるが、それでもやはり本当に残念である。