*名作
 本作についてのレビューを検索して読んでみると、賛否両論あるようだけども、自分は本作はおいおい泣きながら読んだくちなので断然、肯定派である。これは紛れもない名作だと断言したい。
 ちなみに本作のあらすじは、大体こんな感じである。
 登世は夫と二人の子供の四人家族で暮らしているが、夫が出稼ぎに出てから、毎夜、体がほてって寝られなくなってしまう。自分の身体はどうなってしまったのだろう、自分はとんでもない淫乱ではないかと悩み、思いあまって幼馴染の英子に相談すると、寝酒を飲むことを提案され、実行してみるが効果はない。体のほてりは寝酒ぐらいでは収まりそうにない。やがて登世は、いけないと知りつつも、さる男の誘惑を拒むことはできず、人目を忍ぶ恋に落ちて行く…。
 なんかこんな風に、あらすじだけを追うと、ただの不倫もの、メロドラマに過ぎないようだけども、実際の作品を読むと、登世の心理描写は巧みであり、正しく生きようと願いつつも、どうしてもそれができず、過ちを繰り返してしまうという人間の哀しさが描かれ、そこに深み、味わい、共感、感動があるのだ。
 巻末の著者の言葉によると、創作の動機には「自分の性に翻弄されながら次第に道を見失っていく無垢な女性を、愛情と共感をもって書いてみよう」という意図があったらしいけど、著者の試みは本書を読む限り、成功していると思う。


*仕掛け(以下はネタバレしてます)
 本作は、もともとは新聞に連載されていたそうで、そのせいか純文学というより、エンタメ寄りで、人物設定などが分かりやすくなっている。
 まず作品全体に渡って、正反対の人物を設定してコントラストを際立たせている。たとえば、登世と英子は正反対の人物として設定されている。登世は抑え難い性欲に悩むが、英子は不感症でその方面の欲求は皆無だとか、登世は無教養で貧しい暮らしをしているが、英子は教養があり裕福であるとか。
 また登世と川瀬八重も正反対に設定されている。登世は自分の罪を自覚し、罪悪感に苦しむが、登世と同じく夫が出稼ぎに出ている八重は、不倫をしてもさほど悩んでいる様子はなく、妊娠が分かると出稼ぎをしている夫の元を訪ね、夫の間に子供ができたけど早産したということにしてしまう。
 対照的な人物設定はこの他にも活用されている。長男克夫は良い子で、近所に住む青年の桂太は不良ということになっていて、中途からは克夫は怖ろしい子で、桂太は改心して好青年になるなど。
 小道具や伏線の設定も分かりやすい。冒頭では、登世の寝室に天窓があることがそれとなく描写されているが、後にこの天窓は登世の過ちが発覚するきっかけとなるとか、登世は欲望で体がほてっていたのが、やがては病気による発熱でほてるようになるとか、たよ婆さんを乗せた箱車は、後には死体を運ぶことになるとか、克夫が大工をしている桂太と親しくなり、大工に憧れて屋根の上を歩くようになったことが後で重要な意味を持つとか。
 作中で、フランス製のトランプや、フローベールの名が出てきたのは、やや唐突感はあったが、これは登世の未来を語る上では重要な伏線でもあったろう。著者は巻末で、「ボヴァリー夫人」について触れているし、この箇所はかなり露骨なほのめかしではある。
 浜辺の場面が幾度も出てくるのも、登世の未来を暗示する上で重要な意味を持っていたといえそうである。三途の川は生死を隔てる象徴であるし、水を挟んで、この岸とかの岸、この国とかの国という具合に、生と死を分けるのはよくあることだ。とすれば、登世の最期からすれば、それ以前に登世が波辺を歩き、さまよう場面が繰り返されていた理由は容易に想像できる。
 本作にはこの他にも沢山の仕掛けがあり、著者がさまざまに工夫を凝らして創作していることが想像できておもしろい。


*謎と難点
 本作は名作だと思うが、それでも時々、人を描くことより、ストーリーを優先させていると感じる場面もあり、そこのところは人が物語を紡ぐのでなく、物語の都合で人が動かされているようで不自然であり、やや興醒めになることもあった。ここは残念ではある。
 ただその中には一つの謎として思案してみる価値があるものもある。その一つは、英子はなぜ夫(聖次)と登世が二人切りになるように仕向けたのかということだ。
 入院している英子は、登世が聖次の車に乗せられたのを黙っていたことを怒っていた。
 でもその後、英子は自宅に置いてきた漬物の処理を登世に頼み、そこで登世と聖次が二人切りになるように仕向けている。英子は夫の聖次も、登世も、どちらも性的な欲求不満を抱えていることを知っていながら、なぜ自宅で二人きりになるようにしたのだろう。ここはどうも不自然だ。
 とはいえ、似たようなことは他に無くもない。たとえば夏目漱石の「行人』では、一郎は、妻は自分より、自分の弟を想っているのではないかと疑い、弟に妻と二人きりで一夜を明かしてみてほしいと頼んだりする。またアニメ映画『この世界の片隅で』では、主人公のすずさんは、夫によって、幼馴染の彼と二人きりで一晩部屋に閉じ込められてしまう。
 この辺りの不自然さ、屈折した心理について、ツッコミを入れても野暮であるし、詮無いことでもあるかもしれないが、やはりちょっと気になる。


*悪役とサイコパス
 本作の登場人物の中には、サイコ的なものが二人いる。聖次と克夫だ。聖次は自分のために人を利用し、用済みになれば捨ててかえりみず、その事に良心の呵責を感じないらしい。克夫もこれと大同小異で、人の弱みに付け込み、それを最大限に利用しようとする。人を苦しめることに楽しみを感じてさえいそうだ。
 身から出た錆とはいえ、この二人に挟撃されている登世は、本当に気の毒だ。登世はこの二人に出会わなくとも結局は道をあやまったのかもしれないが、この二人と出会わなければ大過なく過ごせたかもしれないのだから、ここは同情しないではいられない。
 小説に限らず、映画やドラマでも、悪役はサイコ的な特徴を持っていることが多いが、そういうものを見るたびに、「相手がサイコパスだと気付いたら、即、逃げろ!」という教訓は本当だなと思わないではいられない。
 現実のサイコパスは、小説や映画ほど分かりやすくはないだろうが、百人に一人はサイコパスだという調査もあるようだし、用心するに越したことはない。むやみに人に偏見を持ったり、差別したりするのはよくないことではあろうが、サイコパスの疑いがある人とは、距離をとるのが無難ではあるだろう。
 本作は、性に翻弄され、道をあやまった女の物語とも読めるが、サイコパスに利用され、破滅させられた、無垢な女の物語とも読めるだろうし、その意味で不倫ものではなくて、サイコホラーと言えば言えそうでもある。不倫ものには興味ないという人でも、サイコパスの怖さを知りたい人には、一読の価値ありである。

『夜の哀しみ 上巻』三浦哲郎








『夜の哀しみ 下巻』三浦哲郎