ゴータマ・ブッダ―釈尊の生涯 中村元選集 第11巻
 本書では、神格化された信仰上の釈尊ではなく、実際の釈尊はどのような人物であり、どのような生涯をおくったかを明らかにする試みがなされている。たとえば初期の仏典では、弟子でさえも釈尊のことを、「シャカ」「ゴータマ」などと呼び捨てであったのが、時代が下がるにつれて尊称がつけられ神格化されて行く様子を明らかにしたり、梵天勧請のような伝説はなぜ生まれたか、現実はどうだったかなどについて語られている。また当時の釈尊は剃髪していただろうから、事実かどうかという視点から見た場合は、仏像に髪があるのは間違いだと見もふたもないことも書いている。
 こういう試みは、信仰上のお釈迦様を大事にしたい人からしたら愉快ではないかもしれないが、自分は信仰上のお釈迦様のみならず、実際のお釈迦様はどうであったかにも関心があるので非常にありがたいし、わくわくするほど面白く読めてよい。大いに歓迎する。
 とはいえ、こういう自分もかつてはこの種の試みは大嫌いだった。仏陀はこの世だけでなく、この世を超えた世界をも知り尽くしている故に仏陀なのであって、仏陀の超人的、超自然的な側面を除外して見ようとするならその真の姿は決してつかみ得ぬだろうし、それは仏陀を矮小化し、自分の解釈可能な範囲内に押し込めようとする甚だしく不遜で愚かな行為であり、無意味なことだと考えていたのだ。
 でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。