*カルトの意味
与国氏の動画を見たら、幸福の科学はカルトではないと主張していた。職員、信者からしたら、そう考えるのは当然ではあると思う。
・宏洋さん「カルト」の意味分かってる?【宏洋氏に物申すシリーズ25】
*別の角度からみると…
自分としては、カルトかどうかは、藤倉氏の話がもっともシンプルで、客観的で、公平であるように思う。
*別の角度からみると…
自分としては、カルトかどうかは、藤倉氏の話がもっともシンプルで、客観的で、公平であるように思う。
*資料
前記事でも触れたことだけども、過去には幸福の科学事件というものがあり、幸福の科学は、批判を封じるための脅しとして裁判を起こしているという判決が出たそうだ。
講談社フライデー事件では、フライデー側にも違法性は認められたが、幸福の科学側も違法性が認められたという。
前記事でも触れたことだけども、過去には幸福の科学事件というものがあり、幸福の科学は、批判を封じるための脅しとして裁判を起こしているという判決が出たそうだ。
講談社フライデー事件では、フライデー側にも違法性は認められたが、幸福の科学側も違法性が認められたという。
*経験
上の動画では、HSはカルトではないと主張されていて、その根拠として、HSでは教団の書籍以外にも、さまざまな良書を読み、学ぶことを奨励しているとか、布施のこととか、自由を尊ぶ団体だとか、そういう風なことを言っている。
自分がHS会員だった頃を思い出すと、確かにそういう雰囲気はあったとは思う。でも退会してから冷静になって振り返ってみると、実態は必ずしもその限りではなかったとも思う。
たとえば、HSでは良書を読むことを推奨されているけれども、講談社フライデー事件の頃は、講談社の本を読んではいけない、読めば悪魔にとりつかれると言われていた。また古典名著を読むときは、HS的な解釈を施して読むべきこととされていた。仏教書を読む時などには、大川隆法の仏教解釈に沿って読むものであって、そうでない解釈、理解は間違いとされていた。古典名著とされるものでも、唯物論者や無神論者の著作はタブーとされていた。何でも自由に学んでよいというわけではなかった。
布施や伝道活動について言えば、終末論とからめてすすめられることが少なくなかった。私が会員だった頃であれば、世紀末には大災害が起きて、多くの人命が失われる、救世のためには伝道が必要であり、そのためには費用がいるから協力を求めるという流れだった。この構造は今世紀に入っても変わらず、教団は核ミサイルの脅威、他国の侵略の脅威などをうったえ、そういう危機を回避するために光を広める必要があり、そのためには先立つものが必要だといった調子であるらしい。はたしてこのような布施の求め方は、まっとうなものだと言えるだろうか。
自由については、表向きは自由を肯定しているようでも、但し書きとして自由には責任がともなうだとか、自由をはき違えてはならないなどといって、結局は、HS教義内における自由は認めるが、HS教義に反する自由は認めないというものになっている。自分たちの価値観に反しない限りは自由だが、自分たちの価値観に反することをしたら相応の報いを受けるというのであれば、そんなものは自由とは言えまい。
私は大体以上のように考えるので、残念だけど上の動画の話はHSの表面的なところを語っているだけで、その実態についてきちんと話しているとは思えない。したがって残念だけど話の内容には同意できない。
*対策
大川隆法は、自分が仏陀である証明として、教えを見れば分かりますとしていた。これはざっくりいえば、「私が仏陀であることは、私の教え(私の言葉)によって証明されます」ということ。
信者もこれと大体同じ思考回路でものを言う。信者は大川隆法の正当性をいろいろと訴えたりもするけれども、結局その根拠になっているのは次の理屈だ。「大川隆法は仏陀であり正しい。なぜなら自分が心からそのように感じ、信じているからだ」
与国氏もこの思考回路を持っているように見える。「HSはカルトではない。なぜなら職員の私がそのように判断しているからだ」という風に。
HSではこのように「私の正しさは私によって証明される」「私は正しい。なぜなら私がそう判断しているからだ」というような思考が横行している。
そしてその背景にはこういう高慢さがある。「私には真贋を見分ける能力があり、ものごとを正しく判断できる。私の判断を認めないのは、霊的に未熟であるか、悪霊憑依によって正しい判断能力を失っているからだ」
こういう思考は、多かれ少なかれ宗教であればどこでもあるとは思うのではあるが、HSでは上から下までこの思考に染まり、他よりも極端に濃厚かつ、あからさまになっており、それゆえに独りよがりのトンデモに歯止めがかからず、その結果として耐え難いほどにカルト臭が強くなっている。
たとえば、最近の霊言本では、霊が大川隆法を賛美するパターンが目立っており、「大川隆法の正しさは、大川隆法による霊言によって証明される」という形が強調されているが、教団内ではそれで済んでも、教団外では、「大川隆法は、霊言という設定で、自画自賛をして喜んでる」と笑われるばかりだ。
お節介なことを言うようで恐縮だけども、HSが世間からカルト視されないようにするには、まずは謙虚になって、このような思考のまちがいを自覚し、反省することが肝要であると思う。こういうことを言うと、一部信者からは反発されそうではあるが、そうでない信者にはどうかこの点よく考えてみてほしいと思う。