憎悪の宗教―ユダヤ・キリスト・イスラム教と「聖なる憎悪」
 タイトルから宗教批判の本だろうと見当をつけて読んでみたのだが、やはりその通りの本だった。この点、看板に偽りなしといえる。自分の理解するところでは著者の主張はおよそ次のようなものである。聖書には、嫉妬、呪詛、復讐、虐殺などを肯定するかのような記述があふれており、その影響を受けた信者たちは歴史上、虐殺や破壊行為を行ってきた、キリスト教は表向きは愛を説いてはいるが、その裏には憎悪を隠している、聖書に基づく一神教は暴力的で危険な宗教であり、仏教の方がよほど平和的であり思想的にも深いものがある云々。
 自分には、こういう著者の主張にはなるほどと思えるところと、違和感を感ずるところが二つずつあった。
 まず納得できたところとしては、一神教と復讐の関係についてだ。前々からハリウッド映画などを見ていて、復讐ものがやたらと多いことを不思議に思っていたのだけれども、著者の主張からすると、どうやらこれには宗教が関係しているらしい。
 邦画では復讐ものといえば忠臣蔵が有名だけれども、その他はあまりないように思うし、仮にあったとしても、復讐は空しいだとか、恨み心では恨みは解けぬという方向に進みがちだ。でもハリウッド映画など欧米の映画には復讐ものは多いし、和解、許しの方向に向かうことも殆どなく、主人公が復讐を成し遂げることで観客は爽快感を得る筋書きになっているものばかりだ。主人公が仇に向かって「地獄に堕ちろ」と暴言を吐くことも珍しくない。この差の背景に復讐を是とする宗教があるというのは、よく納得できる話だ。
 もう一つ、なるほどと思えたのは、ユダについての話だ。著者によると、『ユダの弁護人』(イェンス著、ヨルダン社)という物語では、ユダは神に対してもっとも敬虔で従順であったがゆえに、イエスを裏切るという他の誰にも果たせないほどの大きな使命を与えられ、この使命を果たし神の計画を実現させて殉教したのだから聖人とすべきだという主張がなされているらしい。
 これは冗談なのか、本気なのか判然としないが、すべては神によって予定されているとすれば、こういう主張がなされるのも当然ではあるだろう。ユダであっても救われるという話は、『ライ麦畑でつかまえて』で読んだことはあり一理あると思ったのだったが、ユダは殉教者であり、聖人だという主張には驚かされるが、こういう主張は本当に興味深いものだと思う。ちなみに著者は仏教における提婆達多の評価と、キリスト教におけるユダの評価とを比べて、仏教の優位性を説いているが、このようなユダの解釈が出現したことで、キリスト教もようやく仏教のレベルに近づいてきたかのように書いている。
 次に本書のなかで違和感があった部分について書いてみると、まず一つは著者は仏教を理想化しすぎているのではないかということだ。歴史を振り返れば、仏教は公権力と深く関係したり、僧兵を抱えていたり、一揆とも関わっていたのであろうし、昨今でも仏教系のカルト教団が問題となっているだろうし、この点からすれば仏教は著者が言うほど平和的であるとは言えないように思う。また著者の聖書解釈は、その記述を最大限に悪い方向に解釈し、現代の基準によって批判を加えるという形になっているようだ。でも本来は聖書に限らず、古典聖典を理解しようとするときは、それが書かれた当時の状況を勘案し、かつその記述がどのように解釈され、実践されてきたかを考慮せずしては、正当な批判は行い難いのではなかろうか。著者の聖書解釈と批判はこの辺りについてはやや説得力を欠くところが無くもないし、巻末の寸劇は風刺、皮肉というより、ヘイトに傾いているのは残念に思う。