内村鑑三の『ヨブ記講演』の第三講を読んだので、例のごとく、その要点をメモしておきたい。

  • ヨブ記第三章の研究。
  • 七は完全を意味する。七つ目の艱難で、艱難はその極に達する。
  • 友の見舞いを受けて以後、七日七夜、言葉を発せず。
  • ヨブは艱難にあっても、神も社会も他者も呪わず、「その生まれし日を詛った」。
  • ヨブは死を思うも、自殺は考えなかった。
  • 聖書にある自殺の場面は四ヵ所。イスカリオテのユダ、サウル(サムエル前31)、アヒトベル(サムエル後17)、ジムリ(列王記略上16-18)。
  • 「人の苦痛は人の慰謝を以て慰めることは出来ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に耐え得るのである」。
  • パウロはキリストを知っており、ヨブは知らなかった(コリント後4-8以降、ヨブ42)。

 キリスト教において自殺はタブーになっているという話はよく聞くけれども、キリスト教とホスピスの関係を思うと、自殺はタブーとはいえ、それは何が何でも生きられるだけ生き続けなければならぬというわけではなく、延命を拒否して死を受け入れることは必ずしも否定していないようにも思える。おそらくはこの辺りについては、外部からはうかがい知れない難しい議論はあるのだろうな。
 ちなみに仏典では、悟りを開いた僧が自死する場面が描かれていたりするが、釈迦はこれについてはキリスト教一般とは異なる見解を語っている。当然のことながら、一つの事柄についての判断は、宗教によって異なるということなのだろう。