第五講を読んだので、例のごとく、その内容をメモ。

  • 第6、7章の研究。
  • 14-30節。「友の頼みがたきを述べし言として頗る有名」「西洋の文学書にしばしば引用せらるる」。
  • 26節。「友人らはヨブの言語の表面の意味のみを見て」あれこれ言うばかりなので、言葉を戒めることにはなっても、「ヨブ自身を規正むることは少しも出来ない」。
  • 27節。ヨブは「三友のオルソドクシーの怖ろしさを説いた」。特定の考え方を絶対視し、それを人に押し付けたり、裁いたりする高慢さ、無慈悲さ、理不尽さを批判。
  • 28節以下。「友は人にして神ではない。友に満全を望むことは出来ない。友より得る所には限りがある。故に友に過大の要求をなすべきではない」。
  • ヨブは人に頼まず、神のみを唯一の真の友とするに至って平安を得た(42章)。
  • 「人に満全を望みて後ち失望ししかして人を怨む、これわが国人の通弊である。この時失望のあまり信仰より堕つる者さえある。これ出発点において全く誤っていたためである」「人は頼むべからず、頼むべきは父なる神と子なるキリストのみである」「まず神に頼みてしかる後に人に頼む、その時に人は信頼するに足る者となる」。
  • 「神の存在と罪なくして降る災禍とは、両立しがたき二現象であるが」、これは信仰を棄てれば解決は容易となる。しかしそれは人生の意味を失う結果となる。人生を重んじる限りにおいては、信仰の上にこの難問に向き合う必要がある。

 押し付けや裁き癖が激しい教条主義者の厄介さはよく分かる。恥ずかしながら自分にもその手の性向はある。人に過度な期待はせぬ方がよいというのも合点が行く。自分もそういう失敗を多くした。「神の存在と罪失くして降る災禍」の問題については信仰を棄てれば解決は容易になるというのも分かる。ただ信仰を守り通した上でこの問題の解決をはかる必要があるというのには疑問がある。
 自分は元々はいわゆる無宗教的な家庭で育ち、青年期になるまで宗教には全然というほど興味はなかった。それでも幸福に暮らしていた。そのせいか善く生きるためには宗教はどうしても必要なものだとまでは思えないのだ。人生の意味は信仰がある人はその信仰によって知るのだろうけれども、信仰がない人は信仰とは別のものによって知るのではなかろうか。これは人生について宗教教義によって意味付けするか、それ以外のもので意味付けするかという違いがあるだけであって、堕ちた、堕ちないという話とは別であるように思える。宗教側からすればそういう話になるのだろうが、そういう立場から離れてみるならその限りではないだろう。
 著者の人生に対する真摯さには胸がどきどきするほど感動するのだが、どうもこの辺りの話になると著者との距離を痛感させられる。著者は宗教的な人であって、自分はそうではないということなのだろうと思う。
 ところで、迂闊ながら、今になって気がついたのだが、「ヨブ記講演」は青空文庫に入ってた。ふりがながあると、字面がごちゃごちゃするけど、読めない字は我流に読んで済ましてしまう悪癖のある自分としてはすごく有り難い。