『イエス伝』ルナン著
 ルナンの『イエス伝』は、出版当時は大変な議論をよんだというので、どういうことが書いてあるのか確かめてみたいと思い、通読してみた(昭和25年 第4刷)。自分には難しい本だったが、とにもかくにも一読後の感想をメモしておきたい。
 まず巻頭に掲げられている亡き姉への献辞は、悲しくも美しい文章だ。涙が出る。イエスの生涯についての記述は想像していたよりずっと少ない。大部分は著者の論考で占められており、イエスの生涯をなぞるように書いている部分は全体の三分の一、いや五分の一と言った程度ではなかろうか。ここは残念。でも終わりに近づくにしたがってイエスの言行についての記述が多くなっているのはうれしい。
 自分は著者のイエスに対する信仰の強さをひしひし感じたので、そういう著者が悪魔呼ばわりされ、ひどく非難されたという話は理解し難いものがあるのだが、やはりラザロの復活などの超自然的な事柄や、伝説的な話には距離をおいていたり、イエスは教義体系だとか儀礼的なことにはこだわりは無かったろうとしているところなどが、それらを重んずる人々には問題視されたということだろうか。たとえば、「法と信仰箇条とを含む一宗教的経典といふ観念が、どんなにイエスの思想から距つてゐたか、注意を乞ふ必要はない」(p.264)、「彼の教理は、少しもドグマ的なものでなく、彼はそれを決して書こうとも、書かせようとも思はなかった」(p.362)、「イエスは、教義の建設者でなく、信条の作者でなく、世界を新精神に通ぜしめた人である」(p.362)、「神の重んじ給ふものはただ一つ心の正しさのみである」(p.170)など。
 また訳者の後記によれば、孫引きになってしまうのだけれども、ルナンは次のように書いていたという。「教会を棄ててもイエスに対する信仰は変わらないといふ考えが私を占めた。心霊の出現を信ずることができたら屹度イエスはいふだろう、『私の弟子となるために私をすてよ』と」(p.398)(引用文の旧字は新字に改めた)。
 自分は信仰は個人的なものであって、それを突き詰めるほどに他者とは共有できぬものになるだろうし、組織化された宗教および宗教団体は神というより、人によるものだろうと考えているので、上の文章にはさして違和感はなく、その通りだと感ずるのではあるが、こういう考えはいつの世でも護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める人からは歓迎されることはなく、それはたとえ天地がひっくり返ったとしても変わることはないだろうとは思う。ルナンの『イエス伝』に対する批判は読んでいないのではっきりしたことは分からないが、やはりこの辺りが問題だったのだろうか。もしそうであれば自分は間違いなくバツ判定されることになりそうだし、特定の宗教に属することで平安を得ることはなさそうだ。随分前に、「孤独のとなり」というエッセイ集を読んだ記憶があるが、なんだかまた読み返してみたい気分。