*因果応報と倫理
老人 「あなた方が言う因果応報というのは、大雑把に言えば、善いことをしたら天国に行き、悪いことをしたら地獄に堕ちるというものだろう」
信者 「まあ、そうですね」
老人 「言い方をかえれば、天国に行きたかったら善いことをしなさい、地獄に堕ちたくなかったら悪いことをしてはいけませんということだろう」
信者 「……」
老人 「ようするに、因果応報というものは、『〇〇ならば、~しなさい』というところに行き着くものだろう。天国と地獄という飴と鞭によって、人を動かそうとしている」
信者 「それのどこか悪いんですか」
老人 「善のために善を為すのではなく、天国のために善を為す。悪を厭うために悪を避けるのではなく、地獄を厭うために悪を避ける。こういう判断は、はたして倫理的と言えるかどうか、私には疑問だ」
信者 「そんなのは些末なことにすぎません。ようするにあなたは因果応報という真理にケチをつけたいだけでしょう。あなたがどんなにケチをつけたところで、因果応報はびくともしません。善を為せば天国に行き、悪を為せば地獄に堕ちます。善を為すにしても、悪を為すにしても、自分がしたことは、まわりまわって自分に戻って来るのです。これが真理です。真実なんです。私はあなたなんかより因果応報を信じます」
老人 「あなたが因果応報を信じ、そこに何ら不浄なものを感じていないらしいことについて、私は何も言おうとは思わない。ああしろ、こうしろと指図する気はない。そこは安心してほしい」
信者 「なんだか、上から目線で、嫌味のある言い方ですね」
老人 「そうかな」
信者 「そうです。いっておきますけど、あなたが因果応報を認めないのは、結局のところ、何の努力もせずに、いい思いをしたいからではないですか」
老人 「うーん。何を言っているのかよく分からないな。もう少し説明してくれないかな」
信者 「因果応報にしろ、カルマにしろ、その本質は努力を尊ぶということなんです。因果応報という法則があるからこそ、正しくあろうと努力すれば、その努力は報われるんです。善に努めた者は相応の見返りがあるのです。一方、なにも努力しない者は、なにも得ることはないんです。悪を犯した者は相応の報いを受けるんです」
老人 「それで?」
信者 「あなたは、何の努力もせずに果実だけを得たいんです。過ちを犯してもその償いをする気がないんです。だから因果応報を嫌うんです」
老人 「うーん。その件についてはさっきも触れたけれども、私は労せずして果実を得ようとしているのではないんだ。果実を目的にしたくないから因果応報には距離をおいているんだ」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「天国に行きたいなら善を行いなさいというように、果実を目的とした善行は善行とは言えないし、そういうことを助長する因果応報という考え方には問題があるのではないかというのは、実にシンプルな考え方だと思うのだが、きみにはこれが詭弁に見えるのかな」
信者 「はい、詭弁ですね。自分の心得違いを正当化しようとしているだけです」


*因果応報と宗教性
老人 「ところで、きみにとっての因果応報というのは、一体何なんだね?」
信者 「因果応報は、真理であり、法です」
老人 「因果応報は絶対であり、それを超える存在はないということだろうか」
信者 「そうです。因果応報は、真理であり、法であり、さらには仏でもあります」
老人 「なるほどそうか。私の場合は、因果応報という法則があるとすれば、それを超える存在もあるかもしれないと考えるね」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「そうかもしれないね。でもまあ話を始めたからには、最後まで話させてもらうことにしよう。まず私は、もし絶対者というような存在があるとしたら、それは因果応報を超えた存在であり、その一存によって因果応報を…もし仮に因果応報という法則が存在したとしたならば…簡単にひっくり返せるだろうと思うのだ。もし絶対者が存在したならば、因果応報という法則に束縛されることはないだろう」
信者 「今度は詭弁を超越したトンデモ話がはじまりましたね」
老人 「きみは因果応報を絶対だと信じているからそういう発想になるのだろうけれども、私は因果応報は絶対ではなく、それを超えた存在があるかもしれないと思うから、上述のように考えるんだよ」
信者 「いやいや、もし仮に、あなたのいう絶対者なるものが存在したとしても、因果応報をひっくり返すなんてするわけがないです」
老人 「絶対者は、そんな不公平なことをするわけがないと…?」
信者 「そうです。そんなことをするわけがありません」
老人 「でも、ヨブ記を読めば、ヨブは善人であったからこそ、あらゆる災厄にみまわれたように思えるが」
信者 「それは読解に問題があるのでしょう。あなたの解釈が間違っているんです」
老人 「では、きみは、マタイによる福音書20章にある「ぶどう園の労働者」のたとえはどう思う?」
信者 「それはどんな話ですか」
老人 「ぶどう園の主人は、労働者を集めて作業をさせ、一日の仕事が終わった後、朝から働いた者、昼から働いた者、作業時間が終わる少し前から働いた者、みんなに一日分の賃金を支払ったという話だ」
信者 「労働者たちが働いた時間はそれぞれ違うのに、みんな同じ賃金を与えたのですか」
老人 「そうだ」
信者 「それはおかしいですね。そういう場合は、各人の労働時間に応じた賃金を支払うのが当たり前です」
老人 「でもこのたとえ話からすると、ぶどう園の主人…つまり絶対者である神は、そんな風には考えないようだ」
信者 「……」
老人 「私には、因果応報が事実であるかどうか、絶対者が存在するかどうか、どちらについても確実なことは分からない。でももし絶対者が存在したなら、因果応報だとか、原因と結果の法則だとか、作用反作用の法則だとか、そういったものはあまりアテにはできないと思うね。なぜなら絶対者は、そのような法則には束縛されることなく、自由に判断を下すだろうから」


*おめでたい人
信者 「やはり、あなたは自己中心的ですね。楽して得しようとしているんじゃないですか」
老人 「私の考え方は、もう何度も説明しているとおり、なんらかの果実を目的として善を為すのではなく、ただ善のために善を為そう、その結果、絶対者がどのような判定を下そうが構わない、黙って従うのみだ、ということなんだが、この考え方はそんなに自己中心的だろうか」
信者 「あなたは、神は、自分が何を為そうか関係なしに、ありのままの自分をそのまま受け入れてくれるとか何とか書いてたでしょう」
老人 「そうだね。私にはなんだかんだ言っても、神に対する信頼がある」
信者 「神を信頼するって、なんだか偉そうな言い草ですね」
老人 「まあそれは言葉のあやというものだね」
信者 「誤魔化さないでください。それであなたは、自己都合信仰であることを認めるのですか」
老人 「それより、きみは、ありのままの自分を受け入れられた経験はあるのだろうか」
信者 「いま話しているのは私のことではありません。あなたのことです」
老人 「答えたくないなら答えなくていいが、私の場合のは幸いにして、そういう経験があるのだよ。たとえば私は幼少時に、親に受け入れてもらうために何かしなくてはいけないということを考えた覚えがないんだ。親は、ありのままの自分を受け入れてくれるのが当たり前すぎて、そんなことで悩んだことはなかった。そのせいか今でも、その手の気苦労はあまり感じないんだ。神に受け入れられるために何かをしなければならないというような強迫観念は浮かんでこない。この身このままで受け入れられていると感じるんだ」
信者 「おめでたい人ですね」
老人 「そうだね。それは否定できない」
信者 「では、あなたがご自分のおめでたさを認めたところで、お開きとしましょうか。もういい加減、あなたの相手をするのは嫌になってきました。なんだかいくら話したって無駄みたいです」
老人 「そうかい」
信者 「そうですよ」
老人 「それなら、ここらでおしまいにするのがよさそうだね」
信者 「ええそうしましょう。でも言っておきますけど、今回はこれで終わりでも、次があるかないかはあなた次第ですからね。またあなたがおかしなことを書いていたら、容赦なく批判します。今回は最初なので手加減してあげましたが、次は本気を出しますからね」
老人 「ご随意に。あなたに神の恵みがありますように」
信者 「それはこっちの台詞です」
老人 「ありがとう。では、さようなら」
〈了〉