日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
 大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
 そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
 まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
 これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。