*まえおき
 前記事でとりあげた信者ブログで、アンチ批判がたくさんあったので、ざっと見てみた。以下に感想を書いてみる。


*ノンクリ
 まず楽山はHSからキリスト教に改宗したかのように書いてあったのには驚いた。デマを広めるのは止めてほしい。
 信者には、天国か地獄か、信者かアンチか、敵か味方かという具合に、ものごとを単純に黒白に分ける人が多いようだから、楽山はキリスト教の本を読んで感想を書いてるからキリスト信者だ、と思い込んでしまったのだろうか。


*ひと目で分かる1
 大川隆法が仏陀でないことは、大方の人は、この写真を一枚みただけで、すぐ分かる。
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 でも教団内では、大川隆法(エル・カンターレ)の天上界での御姿を再現なさったのです云々と理屈をつけて、これを尊いものとする。


*ひと目で分かる2
 霊言についても同様だ。信者以外であれば、大方はひと目で、ただのイタコ芸だとわかる。

・大川隆法がトランプ米大統領の守護霊を呼び出した時のやつちょっとだけ
 でも教団内では、霊言の仕組みはああだこうだと理屈を重ね、本物だと結論付ける。


*二種のアンチ
 これによって、HS批判の手法は、大きく二つに分かれる。
 一つは、ひと目で分かることを、そのまんま口に出すものだ。「大川隆法は神で、霊言は本物だってえ? そんなわけないじゃん(笑)」と。
 もう一つは、ひとまず教団の設定した理屈にのっかって、その矛盾点などを指摘するというものだ。「教団はこれこれこうだというが、それはかくかくであってつじつまが合わない」などと。
 信者のなかには、後者を屁理屈アンチと揶揄する者もあるが、実際のところは教団の屁理屈にのっかって、ああだこうだ言ってるだけの話なのだ。


*平行線になる理由
 これについて、藤倉善郎氏は、教団側の理屈を論破して、霊言はインチキだと証明することは難しいとしている。


 宗教の理屈は、信じるものであって、実証されなくてもよいのだから、言ったもん勝ちのようなものだ。「こういう可能性もある」「こっちの可能性もある」「あっちの可能性もある」といった具合に、どんどん新説をつくれるのだから、らくちんだ。
 だから、教義論争は、教団側に信仰を正当化する理屈を思いつける人がいれば、決して負けることはない。延々、平行線がつづく。でももし教団の設定した土俵上で議論しない人…たとえば、「これはウソだ」とひと目で分かることを、率直に言う人が出てくれば、どんなに苦心して積み上げた理屈も、あっさり崩されることになる。


*信者と退会者の教義理解
 信者と退会者の教義理解の差異は、上と関連している。
 教祖を信じている者は、その発言がどんなにトンデモであっても、コロコロ変わっても、矛盾していても、整合性ある解釈を見つけ出そうと努力する。
 でも教祖の真の姿に気づき、見限るようになると、そのような努力は放擲し、余計な解釈はまじえず、ありのままにその教えを見るようになり、おかしいものはおかしい、矛盾しているものは矛盾していると結論づけるようになる。
 教祖を信じている者にとっては、こういう教義理解は即物的で浅はかであるようにしか見えないだろうう。ことばの表面ばかりにとらわれ、その真意を理解していないと言いたくなるだろう。
 でも現実には、トンデモはトンデモだし、コロコロはコロコロだし、矛盾は矛盾でしかない。信者の理屈、意味づけは、信者以外には通用しないものだ。


*自己中
 自己中かどうかは、人を責めるかどうかを見れば、おおよその見当はつく。
 自己中でない人は、他人が迷惑行為をしたときでさえも、その気持ちをおもんばかって「これこれの理由でこうなのだろうな。それだったら仕方がない。もし自分がその立場なら、きっと同じことをする」などと考え、相手のことを自己中だと責めることができない。
 でも自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、「自己中やめろ(俺が望まない言動は止めろ)」と平気で言える。
 ようは、やたらと他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高いということ。


*過疎ブログ
 大分前のことだが、おかしなことに、楽山ブログの訪問者数が激増したことがあり、ものはためしと書籍・レビューカテゴリーに移動してみたら、26位になってた。その時の経験からすれば、同カテゴリーのLEOブログの順位をみれば、訪問者数はおおよそ見当がつくし、楽山ブログと大して変わらんだろうと思う。


*不可知論
 自分は、不可知論的な考え方をしていることを何度も書いてきた。神、真理などは、人には分からんだろうと。
 そのせいか、ぽん吉氏にはこんな風に怒られたりする。「楽山くん、きみには結論がないのか! はっきりせよ!」などと。
 ぽん吉氏は案外に楽山の立ち位置を理解しているらしい。
 でも信者氏による楽山批判を読むと、楽山は神のこと、真理のことなどを分かったと主張しているかのようになっている箇所が散見される。
 ぽん吉氏に分かることがどうして分からないのだろう。


*プラトン
 プラトンの対話篇を読んでいるときに、「これが結論だ」と思って赤線をひくと、すぐあとでそれは論破され、新しい説が提示されたりする。それで「こっちが本当の結論だったか」と思って赤線をひくと、またそれも論破されて…という具合になり、結局、最後まで結論は出なかったりする。
 自分は若い頃はこれを物足りなく思ったものだったが、今はこれが必然と思うし、さして抵抗も感じない。


*神の定義
 自分は、神のことは分からないと考えているので、「神はこうだ」という風なことは言わない。言葉のあやとして、それっぽい表現はあるかもしれないが、それはあくまで言葉のあやにすぎない。
 ただ「××本の定義によれば、神はこれこれこうだという」とはいう。これは自分が、神はこうだといっているのではなく、××本で神はこうだと書いてあるということだ。
 楽山批判を読むと、「楽山は神のことを勝手にこうだと決めつけている」という風なものがあるが、大方、この辺りのことをきちんと読み取れていないのだろう。


*共感するかしないか
 自分は神のことは分からないと考えているので、〇〇教の神や、△△教の神について、最終的な真偽判定は出来ないと考える。でもそうはいっても感情は動くのであるから、「この神には感動するが、こちらの神には感動しない」ということはあるし、自分の気持ちを偽っても仕方がないのだから、それを率直に語ることにしている。
 ただこの場合でも、「この神の教えには共感する」とはしても、「この神の教えには共感する。だからこの神は本物だ」というところまでは踏み込まない。共感するかしないかは自分の感情のことだから分かるが、神は本物かどうかは客観的判定であろうし、人である自分には分からないことであるから当然だ。
 でもどういうわけか、楽山批判では「楽山は自分の好悪で、神を信じるかどうかを決めている。自分の好き勝手で、神かどうかを決めている」というようなものがある。
 たぶん、「この神に共感する」というのを、「この神に共感する。だからこの神は本物だ」という風に、脳内変換してしまっているのだろうけど、もしこういう読解ミスをしてるなら、もうちょっと気をつけてほしいと思う。


*発言責任
 信者側からしたら、大川隆法のことを悪く言うのは、阿鼻叫喚地獄に堕ちるほどの大罪となるのだろう。だから大川批判の是非が議論になるときは、その発言責任の話が出る。
 でも非信者からしたら、大川批判はタブーではないし、それを罪とする発想もない。だからその是非について議論する際に、責任についてうんぬんする必要性も感じられない。
 信者とアンチの間で、言論の自由がテーマになるとき、アンチ側から責任うんぬんの話が出ないのはこのためだろう。


*おわりに
 他にも論点はあったかもしれないが、今は思い出せないので、とりあえずここで筆をおくことにする。 
 それにしても、信者とのやりとりでは、同じこと、分かりきったことを、何度も繰り返し説明しないとならないのはつらい。他の人とのやりとりであれば、ネット上でも、リアルでも、そんなことはないのだから、自分の話し方が悪いせいだとばかりは言えぬだろうし、どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬのだが。
 まあ信者側でも、アンチは分からず屋だというようなことはよく言っているわけだし、ある意味、お互い様というやつか…。





◇◆ 追記 2020.8.30 ◆◇


*大川隆法は仏陀か? 神か? 霊言は本当か?
 大事なテーマを忘れていたので、最後に書いておく。
 まずこの点については、HSでは90年代初頭には、大川隆法が仏陀かどうかは、教えを見れば分かりますとしていたのだった。「大川隆法の説く教えは、立派なものであって、仏陀でなければ説けないものだ、だから仏陀だ」と。
 霊言については、HSは昔も今も、「嘘や芝居では、こんなにたくさんの霊言ができるわけがない。こんなにたくさんの霊言…それぞれの個性のちがいあるものができるのは、それが事実だからだ」としている。
 ネット上の議論において、「大川隆法は別れた妻のことを口が臭いだの、元々結婚したくなかっただの悪口をいっていた、こんなのが仏陀のわけがない」という意見があったときは、信者と称する者が「仏陀だからといって人格者であるとは限らない」と主張していたこともあった。「仏陀は人格者とは限らないのだから、大川隆法の人格に問題があっても仏陀でないとはいえない」と。
 一般的には、仏陀とは人格完成者のことだろうけど、この信者氏は、大川隆法を仏陀とするために、仏陀の定義を変えてしまったのだから、大した信仰心の持ち主ではある。
 同じく、ネット上の議論において、「大川隆法は幸福実現党を立党し、選挙に勝つ気満々だったが、幸福実現党の候補者は全員落選、大川隆法自身も落選した」という批判があった時だったと思うが、信者と称する者は「エルカンターレは天上界では全知全能だが、地上では肉体の制約があるのだ」と反論していた。だから大川隆法が地上において失敗したとしても、天上界においてはエルカンターレであり、全知全能であることは否定されないのだと。
 天上界では全知全能だが、地上に降りると全知全能を失うというのであれば、それってそもそも全知全能とはいえないのではないかと思うのではあるが、ここらへんはこの信者氏は気にならないらしかった。
 こうしてみると、大川隆法は仏陀であり、神であり、霊言は本当であるとするためには、じつにいろいろな論理があるのだなあと思う。傍から見たらこういうものは屁理屈にすぎないのではあるが、信者側にとっては霊的な真実であり、真剣な信仰であろうから、笑い飛ばすわけにもいかず、まじめに考えなくてはいけないとは思う。
 でも正直な感想を述べると、いかな不可知論を支持し、神のことは分からないとする自分であっても、大川隆法が仏陀であり、神であり、霊言は本当である可能性は極めて低いだろうと結論付けるしかないと思える。感覚的なことをいえば、大川隆法が仏陀であり、神であり、霊言は本当であるということにリアリティを感じるのは非常に困難だ。自分はこの件について、真とも偽とも断定は控えるけれども、真とするのは無理だろうなという感触があることまでを否定することはできない。