*忘れてた
 先日、LEOブログを見たら、この記事が目にとまった。


 おそらく批判されているのは、この記事なのだろう。


 LEO氏の記事については、楽山ブログのどこかに感想メモを書いた気もするが、書いた内容も場所も忘れてしまったので、今回あらためて感想記事を書いておきたい。


*強制移動
 ほとんどのアンチブログは強制移動されたが、そうされなかったブログもあるというのはその通り。
わたしレオから見たら、正当性があるなら、なんで多くの信者ブロガーから嫌がられて通報されるわけ?しかも、第三者の運営さんが、その通報を受けて、現に殆どのアンチブログを追放処分にしたのは何故でしょう?

言論の自由以前に、多くの人たちに対する迷惑行為を行なっているとの判定がなされて、それゆえ追放されたのではないでしょうか?
 ちなみに強制移動されなかったアンチブログの一つが楽山日記だ。
 というか、当時の楽山日記は、強制移動どころか、通報対象にもならなかった。
 このやりとりは忘れてたが、過去記事を読み返していて思い出した。


 当時の楽山の立ち位置は、大体、こんなものだ。信者ブログのなかには、楽山に批判的なものもいたろうが、そればかりではなく、紳士的と評価する人もいたわけである。もっとも、この信者の方々が、今もこういう楽山評価を維持しているかどうかは不明だけど。
 LEO氏の話では、かつてのブログ村において、信者とアンチは対立するばかりで、犬猿の仲にあったかのように語られているが、実際はそこまで単純な話ではなく、信者全員が批判的言論は一切認めないわけではなかったし、アンチ全員を排除しようとしたわけではなかったのだ。


*多義性
 ここでは、言葉の多義性が無視されている。
法的権利としての、いわゆる【言論の自由】とは、国家・政府による言論統制、政治権力による抑圧からの自由の保障という意味であって、どこでも好き勝手に自由に発言する権利がある、などという意味ではありませんから。
 言葉の意味は一つではなく、いろいろあるものだ。言論の自由もそうだ。これは、本来は、公権力からの自由の意味であろうが、家庭、会社、宗教などにおいて、発言の機会が与えられなかったり、意見を言いたくても言えない圧迫があったときに「言論の自由がない」と表現したとしても、それは別におかしいことではない。アンチらがいっていたのは後者の意味であったろう。
 LEO氏はこういう相手の心情を切り捨てて、自説に有利になるように「言論の自由」の意味を狭くとらえようとしている。コウ氏はLEO氏のことを、人の思いを汲もうとしない人物だ云々と評していたと記憶しているが、おそらくこういうところを言ったのだろう。
 議論を有利に進めるために、言葉の意味を狭義に解釈したり、広義に解釈したりするのは、よくある戦法だ。でも議論を意義あるものにするには、そんなディベートの真似事をするのでなく、相手の言葉の真意を理解しようと努めることが大切だ。LEO氏がそういう姿勢が欠くのは残念に思う。


*スクショ無し
 これは分からん。
(追記;このアンチは、自由という美名を使って好き勝手を主張するくせに、自身の発言の責任について語ることが無い。この時の主張もまさにソレでした。そしてまた、自分の主張の問題点を指摘されると、その部分だけコッソリ修正を加えるという姑息な改竄も行います。悪質で狡猾です)
 自分はそういう記憶も、記事発表当時のスクショもないので、これについては否定も肯定もできん。
 でもそういう指摘があるなら、楽山は発言の責任について語っていなかったことにしても、こちらは別に構わない。
 自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。


*自由と責任
 LEO氏は、発言責任が云々と繰り返すけれども、
言論は自由です。けれども、その自由には責任が伴います。
権利の主張ばかりではなく、自由の行使を誤った場合の、責任の取り方についても言及がほしいところです。
 こういうことは、テーマと立場の兼ね合いによるのだから、あまり意味のない議論だ。たとえば、自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。
 
①言論
アンチ「批判は当然だ」
信者「言論は自由でも、誹謗中傷はゆるされない。発言には責任がともなう」

②霊言
信者「霊言は真実だ。宗教行為だ。禁ずることはできない」
アンチ「霊言による誹謗中傷はゆるされない。霊言だからといって何をいってもいいことにはならない。霊言発言の責任逃れはできない」

 こういう構図を思えば、「アンチは責任について考えてない」というのも、「信者は責任について考えてない」というのも、どっちも一局面を見てそう言っているだけで、ただの決めつけにすぎない。
 LEO氏はアンチは発言責任について語らないと繰り返すけど、それは自説に都合のよい局面だけを切り取って言ってるだけ。
 ちなみに、アンチ側が述べている、HSの無責任な霊言による被害については、この辺りを読めばわかると思う。

 これだと、楽山はアンチの先頭に立ってHS批判をしていたみたいだ。
 (当時このアンチは、邪教批判をすることは、世の中を正すために必要な批判であり、正義の言論である、と主張し、だから幸福の科学を批判する権利が自分にはある、といった主張をしていました。)
 LEO氏にどう見えていたが知らないが、実際の楽山は、自分でいうのも何だけど、アンチの中ではおとなしく、みなから少し離れてアンチと信者のやり取りを見ながら、感想をもらすという感じの立ち位置だった。
 今も昔も、「自分はHS批判するぞ! 自分にはその権利があるんだ!」と、ガツガツ行くことはない。このことは当ブログのアーカイブを見れば確認できるだろう。
 ああ、そうだ。思うにこれは楽山の考えというより、LEO氏の考えの要約になっている。LEO氏の普段の主張は、邪悪、悪質な者たちを批判することは、「世の中をただすために必要な批判であり、正義の言論である」、だから自分は、批判するというようなものだろう。
 でも自分の主張はこうだ。「人には正邪、善悪を判別することはできなかろう。自分を正義の立場におき、他を邪悪だとして批判するなんてできなかろう。 批判的言論について、それが正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのはむずかしい。その区別には慎重であらねばならない。批判的言論を即、誹謗中傷と決めつけてはならない。人の口に戸はたてられない。批判を封じるなんてできないよ」というようなものだ。
 記事の最後のくだりなどを読めば、自分は正義だと思うばかりでなく、そうではないかもしれないという疑いも持てとしてるのも分かるはずだ。そもそも楽山は、「義人無し、一人だに無し」という考え方であるし、自分の批判は正義だ、自分には批判する権利があるなんて、単純に割り切った思考はしない。
 他を邪悪として、正義の鉄槌をくだしたいのは、楽山ではなくて、LEO氏の方だ。LEO氏は、自身の姿を楽山に投影しすぎてる。


*的外れ
 これは的外れな主張だ。
政府や企業や宗教を批判する自由と、おっしゃっているように、カテゴリ内にいようと、外にいようと、現に今でもこうして、批判を続けていらっしゃる。それがすでに、言論の自由の下にある、ということです。

したがって、カテゴリを追い出されて、強制移動させられたとしても、言論の自由が侵害されていることにはなりません。
 公権力が、アンチらの言論の自由を認めているのは分かりきった話だ。誰もそんなことは問題にしてはいない。
 アンチらが問題にしていたのは、HSは批判的言論を許容できるかどうかということ。
 これに対して、「自分たちはアンチの言論を認めないが、公権力は、アンチの言論の自由を認め、侵害していない」と返答したところで仕方がない。


*たとえ話
 これは全然ちがう話かと。
たとえば、週刊新潮の記者が、幸福の科学内で行われるご法話や霊言収録現場に乗り込んで、ここで批判させろ。どこで批判しようが俺の自由。
俺は、迷っている信者の目を覚ましたいのだから、ここで批判させてもらわなければ意味がない。ここで発言する自由があるはずだ。
などと言ったとして、通ると思うでしょうか? 通りませんね。けれどそれは当たり前の話です。
ブラック企業を批判するのに、社長が社員に訓示を垂れている場所に乗り込んで、ブラック企業批判をすることが許されていますか。それが言論の自由ですか?追い出されたら、言論の自由の侵害?そんなことはありませんね。
 当時の騒動の流れは、こうだろう。
・ブログ村に「幸福の科学」カテゴリがあった。
・そこにアンチが来た。
・信者とアンチでもめた。アンチは他のカテゴリに移動されたりした。
・じきに、「幸福の科学 批判・告発」カテゴリが増設され、やがてアンチはそこに落ち着いた。
・「批判・告発」カテゴリができたなら、そっちに行こうかと、楽山日記は自発的に移動した。
 これを現実にたとえたら、第三者の団体が、幸福の科学に興味ある人が集まる会場を用意し、信者が来、アンチが来てもめた。そこでもう一つアンチ部屋を用意して、両者を分けたということだろう。
 批判者が、宗教教団とか、悪徳企業に乗り込んで行くのはおかしいというたとえ話はピント外れであるし、たとえ話がおかしいということは、物事の本質を理解できていないと言わざるを得ない。


*もう一つの物語
 LEO氏の話だと、アンチらが、幸福の科学カテゴリに入り込んできて、乱暴狼藉の迷惑行為をなし、通報、排除されたという話になってる。
 でもこの話には、これとは別の流れもある。それはこういうものだ。

①優れた論客のアンチが、幸福の科学カテゴリに参入。各信者ブログについて辛口批評を行う。
②信者らは論客アンチを批判するも、口では歯が立たない。
③信者の中では最も優れた論客ガン氏でも、論客アンチには議論では勝てず、結局こうなった。


 ようは、信者第一の論客ガン氏であっても、集団で通報、削除という手段に訴えたということ。
 さらに論客アンチは、個人情報を信者らに知られてしまい、自由に発言ができなくなった。
 また、LEO氏の話だと、ブログ村において、信者とアンチが二派に分かれて激しく対立していたかのように思えるが、実際にはそこまで単純ではなく、信者のなかには、ブログのコメ欄でアンチと話をする者もいた。
 このように、LEO氏が触れていない事実も少なくないのだ。ようはLEO氏は自説に都合のよいところだけ切り取って話しているということ。


*歪曲捏造
 この要約はおかしい。
 (追記注;このアンチは当時、このような表現でもって、幸福の科学=社会悪なので、これを正すためには相手にとって不愉快な言葉表現であっても、その批判は正当化されるかのような言い回しをしていました。
 実際の文章はこちら。
2020-09-06 (2)言論の自由と道徳

 自分の主張は、正当な言論であっても誰かを不愉快にさせてしまうことはあるのだから、誰かを不愉快にさせたからといって即、正当な言論ではないと結論付けることはできないということだ。ひらたくいえば、自分にとって不愉快な言論だからといって、それが間違いとは限らないということ。
 でも、この要約だと、悪をただすためであれば、他人を不愉快にすることも正当化されるという風になっている。正しい目的のためなら、人を苦しめる手段をとってもよいのだと。
 自分はそんなことは決して言わんよ。これはもう歪曲捏造の域に達してる。
 こんな悪意ある要約をして、記事へのリンクを貼らず、読者が元記事を確認できないようにしているのは、これはもう公正、正義には全く関心がない人だという結論を出さないでいるのは非常に困難だ。


*切り取り
 またもや、LEO氏は自説に都合のよいところだけ切り取っている。
(追記注;このアンチは当時、幸福の科学カテゴリに登録できた方が、信者ブログの更新もわかるし、アンチの記事も同じ場所でわかるので、自分的には便利なのだみたいなことを言っていたと思いますが、自分勝手な自己都合の理由でしかなく、信者諸氏の迷惑などまるで考えていないことが、この言い分にも現れているのがわかるでしょう)
 ここでの文章は、自分の希望はこうだけども、信者の意見も理解するということだ。自分の希望ばかりを言っているわけではない。

 毎度のことながら、LEO氏の記憶や要約は、とてつもなく適当で、歪曲捏造がひどい。しかも元記事のリンクを貼っていないから、読者はそのことに気づけないということにもなっている。いやはや…。
 ところで、LEO氏はここでも楽山は自分の記事を後から書き換えたというのであろうか。もしそうであれば、こちらはそれでもかまわん。楽山日記の読者であれば、楽山は自分の希望を述べることはあっても、それを他人に命令、強要することはなく、他人が何をしたところで、「まあ、それも仕方がない」として何でも受容するタイプだとわかると思うので。
 わざわざ「私は我意を通そうとしたりはしません」と改めて主張しなければならない必要性は感じない。


*怨恨
 これは屈折してる。
↓ この悪質アンチの心理分析として、以下の記事が関連内容として有効かと思うので、リンクを貼っておきます。
 ほとんど誰にも顧みられない閑散ブログゆえに、信者からの批判を浴びないのをいいことに、図々しくも好き放題の戯言を10年近く垂れ流し続けているので、問題点を以下に指摘し、悪い見本としての分析をしておきたいと思います。
 楽山日記のような閑散ブログは相手にしないというのであれば、当たり前の思考と行動だ。でもLEO氏みたいに、楽山日記のような閑散ブログは相手にする必要なしと繰り返しつつも、無視できず、いくつも批判記事を出さないではいられないというのは、おかしい。
 大方、過去に楽山から痛いところを突かれたことを恨んで、とるにたらない過疎ブログと捨てることができず、粘着してるということなのだろうが、そういうことはLEO氏の楽山批判を読めば、誰でもすぐ見当がつくということは指摘しておきたい。LEO氏はきちんとしたことを書いているつもりであろうが、傍から見れば、怒り、憎しみ、偏見、差別、悪口、高慢、裁き心…などが満ちていて、読むに堪えない文章になっているので…。文は人なりというけれど、文章を見ればその人物が分かるというのは本当だよ。〈了〉





◇◆ 追記 2020.9.7 ◆◇


*接続
 記事を読み直してみたら、「立ち位置」と「正義」の項目は、一つの項目にまとめた方がよさそうだったので、両者をまとめて、小見出しは「正義」とした。





◇◆ 追記 2020.9.12 ◆◇


*動揺
 当該記事が、人気記事に入っていたので読み直してみたが、けっこう文章が乱れてる。特に最後のくだり。これは恥ずかしい。
 信者と議論していれば、自分の発言を歪曲捏造されるのは日常茶飯事だし、慣れっこになるものだけど、ある程度は読書をしていて知性もあるだろうはずの信者まで、それをしているというのは衝撃的だし、なかなかのショックだったんだよね。でも考えてみれば、相手の発言を引用しない、リンクを貼らない、自己流の要約で済ますというのを常態としていることから類推すれば、そういうことをする人だということは、はじめから分かりきったことだったのだ。
 これしきのことを見抜けず、動揺する自分は、まだまだ、あまちゃんだなと思う。反省。
 ああそうだ。大川隆法は他者を批判するときに、「こんなことを言っている人もいますけど…」みたいに、その人物の名前、著作、ページ数などをはっきりさせないまま、あれこれ言うことが多いのだった。信者の他者批判の方法が適当なのも、こういう教祖を真似ているせいかもしれないな。





◇◆ 追記 2020.10.10 ◆◇


*補筆修正

 記事を読み直したら、前半部分に意味を理解し難い箇所があったので、補筆修正しておいた。
 主張内容は変えてないが、文章をこっそり書き換えただの何だの言われるかもしれんのであらかじめ断っておくことにする。