*つづき
 前の記事で、「改心とゆるし」についても論点にしようと思いつつ、うっかり忘れてしまっていたので、稿を改めてここに書いておきたい。


*ゆるしが先で改心があと
 まず自分が、このテーマに興味を持ったのは、『キリスト教がよくわかる本』(井上洋治著)にある一節を読んだことだった。
DSCN6473 ゆるしが先で、改心が後
 ここでは、明確に「ゆるしが先で改心があと」と書いてある。例示されている聖書の場面もそのように読める。
 これは自分には驚きだった。


*レ・ミゼラブル
 それで、他にも同じような例はないかと思っていたところ、『レ・ミゼラブル』でも、「ゆるしが先で、改心はあと」という形が描かれていることに気がついた。
 

 『ライ麦畑でつかまえて』にも似た考え方が出ている。



*カテキズム
 『カトリック教会のカテキズム』(2002年)ではどうかといえば、このテーマと関係がありそうな箇所を抜き書きするとこうなっている。
回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。(1440)
回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵によって心は神に向きを変えます。(1432)
この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、働かされる「打ち砕かれた心」の動きであって、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです。(1428)
これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し、またキリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します。(1729) [ 下線は筆者による ]
 回心が先で、ゆるしがあとであるような記述がある一方で、回心は人によるのでなくて神の恵みによるとしているところ、ペトロの回心の前にキリストのあわれみがあったとしているところは興味深い。
 当該箇所(ルカ22.61-62)を読めば、キリストはたしかに、ペトロの裏切りを裁くことも、責めることもなく、人の弱さ悲しさをあわれむ目をしていたと思われる。


*放蕩息子
 同じくカテキズムには、放蕩息子のたとえについて、こう書いている。
回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」です。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り、やむなく豚を世話しなければならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよくあらわれています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。(1439)
 このたとえ話(ルカ15.11-24)は、放蕩息子の視点から読めば、「反省→ゆるし」ということになっている。でも父の視点からみれば、はじめから最後まで、放蕩息子をゆるし、受け入れている。
 このことは、父は放蕩息子が反省の弁を述べる前…(息子が反省したかどうか知らない状態)…において、息子の姿が見えるとすぐに駆け寄り、抱きしめていることでわかる。父は当初から息子の身を案じるばかりで、少しも裁くところがなく、まさに「いつくしみ深い父」である。
 こうしてみると、この話は、どういう視点から見るかによって、回心が先とも、ゆるしが先とも解釈し得るようだ。 


*自分の考え
 自分は、人には神のことは分からないと考えているので、「改心が先で、ゆるしがあと」とも、「ゆるしが先で、改心があと」とも、決めつけることはできない。ああかもしれない、こうかもしれないと可能性について考えをめぐらすくらいだ。
 ただ、キリストは十字架につけられ、嘲りを受けている時に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23.34)と祈ったのであれば、罪の自覚がなく現在進行形で悪を為している人々をゆるしていたということであろうし、「ゆるしが先で、改心があと」という説には説得力があると思わないではいられないというのが正直な感想ではある。





◇◆ 追記 2020.9.12 ◆◇


*HS教義
 一応、HS教義にも触れておくと、HSでは、たしか『希望の革命』において、「反省が先で、ゆるしはあと」としていたと思ったが、その一方で、神は地獄霊を消そう思えば消せるが、それはせず、その存在をゆるしているだとか、地獄の底を支えているのは神であるという考え方もあったろうと思う。このことからすると、楽山が関心を持っているのは、前者ではなく、後者の教えということになる。
 また、HSでは、高級諸神霊は、波長同通の法則があるため、地獄霊を救おうとしても救えないだとか、地獄霊は自らの意思で地獄に留まっているという考え方もあっただろう。このことからすると、地獄霊をゆるすかどうか、地獄から出せるかどうか、地獄霊本人は救いを受けるかどうかは別問題であることがわかる。したがって、地獄霊をゆるし天界にあげたら混乱が生じる云々という疑問は、これらの問題を区別できず、ごちゃ混ぜにした故の妄言ということになる。
 「ゆるしが先で、改心があと」という考え方は、HS教義とは、どうも相性はよくないようではあるが、神は人に神罰をくだすという最近の教義ではなく、神は人を裁かないという初期の教義であれば、まったく容認不可能というわけでもなかろうと思う。