『自分の時間』ベネット著
 最近は、時間の有効利用についてよく考えているのだが、先日とある書店に入ったら、本書が一番目立つところに立てかけてあったので、即、購入して読んでみた。結果は、まずまずの当たり本だ。
 その内容はどうかといえば、朝の時間を活用するだとか、実践は先延ばしするのでなく、すぐ始めることだとか、いきなり大計画を立てるのでなく、実現可能なことからはじめて小さな成功を積み重ねて行くだとか、わりと王道的なことが書いてあるのだが、集中力を高める工夫(心のコントロールの方法)だとか、内省的になり、自己を知る時間を持つだとか、修養的宗教的な領域に踏み込んでいるのが印象的だ。
 この頃は、自己啓発本はあまり読まなくなっていたのだが、やはりこの種の本は、読むと元気が出るのでいい。「よし、もっと頑張ろう」という気持ちになる。
 とはいえ、「自分の行動が自分の生活信条と一致していない人生というのは、無意味な人生だ」(p.100)という意見には少々違和感を感じないでもなかった。著者がいうには、盗みをしたことを後悔するとしたら、それは自分の生活信条に反する行為である故であり、もし盗みは「道徳的に立派」だと信じているなら、「刑務所暮らしもまた楽しからずや」となろうし、この考え方からすれば、自分の信条に殉じた「殉教者は皆、幸福な人間ということになる」のだという。
 これはこれで一理あるのではあるが、自分の記憶では、司馬遼太郎はこれとは違ったことを書いていたと思う。思想と行動は、本来、一致させることは出来ないものであり、それを一致させようとすれば、「狂」となるより他なく、吉田松陰はそのような人であったとか何とか。
 恥ずかしながら、自分は過去に宗教に凝ったことがあり、信仰と行動を一致させることができず悩んだことがあったし、信仰と行動を一致させようとした信者が、幸福とは思えぬ境遇に落ち込んでゆくのを目撃したりもしたこともあったので、司馬遼太郎の意見を読んだときには、思わず膝を打ち、これぞ正論だと思ったのだった。
 でも、ベネットはこれとは正反対の意見を持っているらしい。信条と行動が一致しない人生は無意味だとまで言い切っている。
 はてさて、ベネットと司馬遼太郎、どちらの意見が正しいのであろうか…? これは価値観、人生観の話であるから、人それぞれであり、時と場合によりけりであって、万人が同意できる結論を出せるわけもないのだろうが、自分はどうもこの種の問題についてはあれこれ考えないではいられない性質なので困る。どうやら今夜はあーでもない、こーでもないと考えてばかりで寝られないことになりそうだ。とほほ。