「第九講 神智の探索」を読了。例によって、内容をメモしておきたい。 
  • 「第十一章、十二章の研究」
  • 「悪しき者は来世の生活を厭う、これ罪の罰を懼るるからである、故に悪しき者の望は死(絶滅)であるというのである」とは、ヨブが死を願うことに対する語。「ゾパルはヨブは罪人となし、愚者となし、また悪しき者」とみなしている。
  • 「畢竟かの新説と称するもの、概ね旧説の焼き直したるに過ぎない」のであって、「ただ外衣と装飾とを異にせるのみであ」り、中身は変わらない。
  • 「彼らは自己の抱く思想、自己の信ずる教義、自己の選ぶ行動、悉く真正妥当にして最もよく真理に適えるものと做す。彼らは自己中心の徒である。自己のすべてが神に適い、神はいたくこれを賞でてすべてにおいて己の味方であるとなす。すなわち彼らは己を悉く棄てて神に随わんとするに非あらず、己を悉く立てて神をしてそれに随わしめんとする、否神がそれに随いおるとなすのである。これ最大の自己中心である。実は最も「神を怒ら」するものである。彼らの類は世に甚だ多く、しかして富み栄えかつ安らかである」
  • 「すべての天然物は我らに神の測りがたき穎智を教う」
  • 「神の著わせし書物に二つある、甲は聖書、乙は自然界(全宇宙)である。両者を知りて初て神を知るにおいて全い。自然研究の効大なりといわねばならない」
  • 「天然を通じ人事に徴して神智神能の絶大を知るほか、なお一事を知らずしては、我らの神に関する知識、また救に関する知識は不充分である。なお一事とはすなわち罪の自覚である」
  • 人は、自然によって神の力を、歴史によって神の智を、啓示によって神の心を教わる。
 この講義録を読みつつ、以前、自然神学にまつわる論争について何かで読んだことがあるのを思い出したので、検索してみたら、次のページが出て来た。


 たぶん、自分が何かで読んだ論争は、この書評にある論争なのだろう。神学の知識のない自分にはちんぷんかんぷんであるが、せめてこの論争のさわりの部分だけでも理解できるようになりたいものである。

 著者が語る自己中心的な人々については、おそらくは、このような心理なのだろうと想像する。
正義という快楽
 「正義」は危ないということはよく聞くことではあるが、こういう人たちは、罪なき者だけが石を投げよと言われれば、胸を張って石を投げそうだから怖い。でも自分にもそういうところはまったく無いと断言できないところはつらい。反省。