*おやおや
 LEO氏の新記事をみたが、ますますアテツケ度は高くなってるようだ。



*内村鑑三の霊言
 もうさすがに細かく異論を述べるのも面倒なので論点を絞って書くと、まず内村鑑三の霊言については、佐倉哲氏が難点を指摘している。


 佐倉哲氏は、内村鑑三について、このような文章も書いてる。


 ここで紹介されている内村鑑三の言葉は、はじめて読んだけど、自分にもなるほどと了解できるものだ。当然ながら、内村鑑三ほどそれを実行できるわけではないのはもちろんであるが。


*ヨブ記、三浦綾子
 LEO氏は、ヨブ記、三浦綾子、大川隆法の著作から、神の前に謙虚であるべき云々と書いているが、例によってその背景の違いには無頓着だ。
 まずHSでは因果応報を説くから、HS的な謙虚さはこうなるだろう。
「善を為せば善いことがあり、悪を為せば悪いことがある。すべては自己責任であり、因果応報は真実である。したがって災いに遭ったなら、神を呪うのでなく、まずは自分の罪を反省せよ」
 一方、ヨブ記や三浦綾子の謙虚さはこうだろう。
「神を満足させるほど正しい人であっても、災いに遭うことがある。災いは必ずしも罪の報いとは限らない。因果応報という考え方は正しくない。幸いも、災いも神から来るのだ。人はこれを拒むことはできない。神の前に従順でなければならぬ」
 両者は、神の前に謙虚であれという結論は同じでも、その背景にある思想は正反対だ。ここを無視して、結論だけ語るのは乱暴すぎる。


*たたり?
 ついでに書くと、三浦綾子は夫婦で体調を崩して寝込んでいるときに、「何かの祟りではないか」と心配する人がいたと苦笑気味に書いていたかと思う。幸いも災いも神から来るのであって、悪霊が災いを起こすなんてナンセンスだと考えてるのだろう。
 この点、悪霊が災いを引き起こすとするHSとは、まるで違っていると思う。


*無頓着
 自分がHS会員になった頃は、思想だとか、教義だとかに詳しい先輩会員がいて、たくさん勉強させてもらったものだけども、最近のHSを見てるとそういう人はいなくなってしまったようだ。
 ぶっちゃけ、大川隆法の説法内容の劣化具合からすれば、そういう人はとっくに離脱したということなのだろうけれども、これは残念であるし、さびしい限りだ。大川隆法は若い頃、思想家になりたい、将来古典とされるような思想書を書きたいと思ってたそうだけど、そういう夢は諦めちゃったのだろうな。