*まえおき
 前の記事を書いてから、「ヨブ記」を読み直してみた。感想を書いてみたい。


*あらすじ
 まず、「ヨブ記」の内容は、大体こうなっている。
  • 神は、ヨブは信心深くて善良であるとして喜ぶが、悪魔はヨブは幸福だから神を信じているだけで、逆境に陥れば神を恨むに違いないという。神はこれを聞き、ヨブが逆境においてどうするか試すことにする。
  • このあと、ヨブは財産を失い、家族を失い、自らも難病におかされることになるも、それでも信仰は保ち続ける。
  • 三人の友人は、ヨブを見舞い、その惨状に驚きつつも、ヨブが災厄にみまわれたのは、罪の報いであるから悔い改めなければならないと説く。
  • しかしヨブは、三人の言葉に憤り、反論をする。自分はこのような報いを受けなければならぬほどの罪を犯した覚えはないと。
  • 両者の議論は白熱し、ヨブは神に向かって、自分はなぜこんなにも苦しめられねばならないのかを問う。
  • 神が登場し、自らは全能、絶対、完全であり、人知を超えた存在であることを誇示する。
  • ヨブは、神の偉大さに圧倒されて沈黙し、頭を垂れる。
  • 神はそんなヨブを祝福する。これによってヨブは、前以上の財産を得て、子供にも恵まれ、長寿をまっとうすることになる。
 次に、「ヨブ記」のうち、論点になっている箇所について、自分の考えを述べたい。


*ヨブの受けた災厄は、罪の報いなのか?
 「ヨブ記」においては、神はヨブについて次のように言っている。
 主はサタンに言われた。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

(ヨブ1-8)
 この発言からすると、神はヨブに満足しており、罪があるとは考えていないらしい。それなら、ヨブは罪の報いを受けることもあるまい。


*ヨブの受けた災厄は、どこからもたらされたのか?
 「ヨブ記」をみると、神はサタンに次のように命じている。
 主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」

(ヨブ1-12)
 ヨブはこれによって財産や子供たちを失った。
 その後、神はさらにサタンにこう言った。
 主はサタンに言われた。
「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」

(ヨブ2-6)
 ヨブはこの後、難病にかかり、もだえ苦しむことになる。
 このことから、ヨブを苦しめた実行犯はサタンではあろうが、それを命じたのは神であるといえる。


*ヨブの災厄と「波長同通の法則」
 上の二回の災厄について、波長同通の法則によって考えると、サタンはヨブの心が清いときは、ヨブの周囲の人々は攻撃できても、ヨブ本人は攻撃できなかったが、ヨブの心に迷いが生じてからは、ヨブ本人を攻撃できるようになったと推測される。
 しかし、「ヨブ記」によると、ヨブ本人が難病におかされるようになって以降も、ヨブは罪はおかさなかったとしている。
 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

(ヨブ2-10)
 したがって、「波長同通の法則によって考えると~」云々という解釈は、無効ということになる。
 またそもそも、ヨブの災厄は、上の神の言葉にもどついたものであって、波長同通の法則によるものではない。


*友人たちの忠告は正しいか?
 三人の友人たちは、因果応報という考え方に基づいて、ヨブに忠告を与えている。
 善因善果、悪因悪果ということからすれば、ヨブが死を願いたくなるほどの怖ろしい災厄にみまわれたということは、それだけの大きな罪を犯したということであろうから、悔い改めなければならぬと。
 しかし、これについては、上ですでに述べた通り、ヨブの受けた災厄は、罪の報いによるものではないのだから、三友の忠告は、的外れということになる。


*なぜ神は、三友たちに怒ったか?
 神は物語の終盤において、ヨブは正しく、三友は間違っているとしている。
 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。

(ヨブ42-7)
 私見ながら、神の怒りの原因は二つあり、まず一つは、三友が神の絶対を信じていなかったことにあるのではないかと思う。三友は、神は因果応報を超えた判断をする場合がありえることについて、まったく考慮していない。つまり、神ではなく、因果応報をこそ絶対なものとしており、神以外のものを神とする偶像崇拝に陥っている。
 もう一つは、三友たちは、自分は神の摂理を知っている、神の御心を知っていると思い込み、自らを神の位置においてヨブに説教していたことだ。三友は、自分は正しいと信じて疑わず、傲慢であった。
 一方、ヨブはといえば、なぜ自分は苦しめられなければならぬのかという問いを発して、神の御心は応報思想では分からないことに気づいていた。神こそは絶対であり、因果応報を超える判断をくだす可能性について、おぼろげながらも気づいていた。
 またヨブは、自身を神の位置におくのでなく、神と向き合い、衣の裾をつかんで離さず、必死になって、なぜ、なぜと繰り返し問うていたのだった。神を恨むかのような発言もあったが、それは神を切実に求めているが故のものだった。
 神はこのような両者の違いを見極めていたのではないかと思う。


*自分語り
 ちなみに、自分はHS信者だったころは、三友のように考えていた。因果応報だとか、波長同通の法則だとか、そういった法則は絶対であって、これこそが神であるという理神論のような考え方である。
 でもHS退会後は、神は絶対、全能、完全であるという考え方を知るようになり、それなら神は因果応報はもちろん、波長同通の法則、引き寄せの法則、代償の法則その他一切の法則をも超越することができるのであろうと考えるようになった。
 こう考えると、くだらぬ迷信や、トンデモ理論に惑わされることがなくなるので快適である。


*神義論(弁神論)
 とはいえ、神は絶対だとすると、神義論というやっかいな問題と向き合わねばならぬことになる。
 この辺りの構造については、西田幾太郎はこう書いている。
神を最完全存在者といふ風に考へることによつて難問題が起つてくる。即ち、それでは何故に世の中に禍や悪があるかといふ問題である。
〈省略〉
この問題を理論的に見ると、現在禍や悪がある。しかるにもし神が完全存在ならば如何にしてこれを作つたかと云ふことになる。

(『西田幾多郎全集 第十五巻』西田幾多郎、岩波書店、1979年、p.355)
*旧字は新字に改めた。
 つまり、神は絶対、全能、完全だとすれば、神議論に突き当たるのは論理的必然であるのだ。
 HS信者氏は、「『神がいるなら、なぜ悪があるのか』『悪人が成功し、善人が悲惨にあうのはなぜか』という疑問を持つのは、その者が不信仰だからだ」と独り決めしているが、これは上の前提と論理を解さぬために勘違いしているのだろう。


*無神論と有神論
 内村鑑三の『ヨブ記講演』第十三講によれば、イエスは最大の無神論者かつ最大の有神論者であるという見方があるという。なぜならイエスの最期の言葉は「わが神わが神何ぞ我を捨て給うや」であると同時に、この言によって神を見出す人もいるからである。
 そういえば確かに、詩編22は神を恨み、かつ讃美するものである。
 ヨブは神に苦しめられることを恨みつつも、神を強く求めているし、また神に裁かれているとしつつも、その神に自分の弁護を願っているなどして、大分混乱しているようにも思えるが、最大の無神論者でありつつも最大の有神論者でもあることが可能とすれば、こういうヨブは最大の不信仰者であるともに、最大の信仰者でもあり、これこそが宗教的真実を示しているといえるのかもしれぬ。
 信仰とは、神を否定したらダメ、神を讃美したらマルというような単純なものではないのだ。
 ちなみに、前に記事に書いたことがあるが、羽仁もと子の「ヨブの信仰」でも、ヨブが神に対していろいろ言うのも、神を信じていればこそだとして、これと似た解釈をしている。


*悪魔は、神に逆らうことができるのか?
 ヨブ記では、悪魔は、神に従順な存在として描かれている。神の命令に逆らって、ヨブを死なせたり、魂を奪うことはしていない。
 ようは、神は絶対であるとするならば、悪魔でさえも、神に逆らって勝手なまねはできないということなのだろう。
 そういえば、ホラー映画では、神父が「主の御名によって命じる、悪魔よ去れ」というと、悪魔はこれに反抗しようにもできないでいたりする。
 悪魔は、神の直接命令のみならず、その代理人である神父にも逆らえないという設定なのだろう。


*テーマ1
 以前、何かの本で、「ヨブ記」のテーマは、因果応報の否定だとしているのを読んだ記憶がある。
 「ヨブ記」では、ヨブは善人であるゆえに災厄を受けたことになっているのだから、これは一理ある解釈だと思う。


*テーマ2
 岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』の解説では、「ヨブ記」のテーマは神のための信仰だとしていた。
 応報思想に基づく信仰は、よき果報を得るために善を選ぼうとする自己中心的なものにならざるをえないが、「ヨブ記」はそのような自己中心的な信仰ではなく、神のための信仰の可能性を探るものだというのだ。これも大いに理がある。


*テーマ3
 私見ながら、「ヨブ記」のテーマは、神の絶対にあるともいえるのではないかと思う。神は、人はもちろん、悪魔も、因果応報の法則も、すべてを超越している絶対であるのだと。
 神は、人には分からぬ存在であり、悪魔の王者サタンでさえも逆らえず、因果応報も、波長同通も、その他どのような法則にも制約を受けない存在なのだ。
 「ヨブ記」はこのような神を明らかにすることを目指したものではあるまいか。「ヨブ記」関係の書物はまだほとんど読めていないが、このような解釈をしている専門家もいるのではないかと期待している。


*神のための信仰と利己的な遺伝子
 アリの群れの役割分担は、個体としてみれば理不尽なものであろうが、遺伝子の視点からみれば合理的であり、納得できるものとなる。
 ヒトの利他行為も、個体としてみれば他の犠牲になっているようにみえることもあるが、遺伝子の視点からみれば生存戦略としては実にうまくできているといえる。
 もしかしたら、神のための信仰にも、このような見方は有効かもしれない。ヒトが神の道具になりきることは個体としてはこれ以上ないほどの自己犠牲を強いることになるかもしれないが、宗教の布教と存続という点からすれば、これほど好都合なことはないのだ。
 宗教はヒトの心に寄生し、無限に自己の増殖複製を試みる生物だと仮定すれば、神のための信仰にヒトを導くことは究極の生存戦略だといえるだろうし、御利益を求める自己中心的な信仰は、そのような宗教の生存戦略を逆手に取ったヒトの側の戦略ともいえそうだ。


*人は見たいものだけを見て、見たくないものは見ない
 ヨブは因果応報では読み解けない現実…なぜ善人が災厄にあうのだろうかということについて、本気で考え続けている。
 けれども三友は、この問題を本気で考えることができていない。善良なヨブが悲惨な状況に陥っているのを目の当たりにしても、応報思想と現実の矛盾に気がつかないのだから驚かされる。
 「ヨブ記」は、このような人のエゴ、冷淡さを巧みに表現しており、人を描いた文学としても見事である。


*まとめ
 「ヨブ記」をはじめて読んだときは、正直言って何がすごいのか分からないというのが本音だった。
 でも最近になってようやく、その奥深さを感じることができるようになってきたのは愉快だ。
 まだまだ何も知らないニワカではあるが、「ヨブ記」は少しずつでも勉強していきたい。極めることはできないにしても、努力を続けている限りは一歩でも二歩でも前に進めるだろうと思うので。