*内村鑑三とスピリチュアリズム
 岩波の「内村鑑三選集」をつまみ読みしていたら、『第八巻 生と死について』の「死後の生命」で、スピリチュアリズム方面に触れている箇所があったのでメモしておきたい。
 といっても、スピリチュアリズムについてそれほど深く語っているわけではなくて、死後生命はあるとする内村鑑三自身の主張を補強するために、近代的、科学的な方法によって死後の生命の存在を証明しようとした人々もいたとして、フレデリック・マイヤーとその言葉を紹介したり、、W・L・ウォールカーの『霊と受肉』、ウィリアム・オスラーの『科学と死後生命』、ウィリアム・ゼームスの『人間永生論』にある一文を抜き書きしているという程度ではあるが…。
 スピリチュアリズムはキリスト教および教会に対して批判的なところがあるので、キリスト者が自説を補強するためにスピリチュアリズム側の人物の言説を用いるというのは少々意外な感じがしないでもないが、内村鑑三は外国の宣教師には複雑な思いをもっていたり、教会と意見の相違はあったようなので、スピリチュアリズムとはある程度の共通点があり、そこまでの悪感情は無かったということなのかもしれぬ。少なくともこの文書を書いた時点では。
 でも両者の関係については、自分はまだ何も知らないのと同じなので、少しずつでも調べてみたいとは思う。


*信仰者
 ちなみに内村鑑三は、この文章の中で、次のような理由で死後の生命を信じるとしている。
  • 死後生存について、「其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其者が来世存在に関する強力なる証明の一である」
  • 「現世は人の限なき知識慾を充たさんが為には余りに短小である、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈をくだすことは出来ないのである」
  • 「十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る」
  • 「汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確認するに至るであろう」
  • 「死後の生命は信仰を以てする冒険である」
 当たり前の話ではあるが、こういう言葉を読むと、内村鑑三は根っからの信仰者なんだなと改めて思う。


*余談
 同書に収録されている「不死の生命に就いて」の冒頭には次の文章が見える。
若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。

「不死の生命に就いて」内村鑑三著
 同じく同書に収録されている「死後生命の有無」にはこうある。
死後の生命は人の固有性にあらず、信仰の報償として彼に与えらるうものである。

「死後生命の有無」内村鑑三著
 これらをまとめると内村鑑三は、死後生命について、「死後の生命」(大正8年)では人類は古来より強く求め信じるが故に有るとし、「不死の生命に就いて」(大正13年)では人の願望や信仰に関係なく客観的に存するとし、「死後生命の有無」(昭和4年)では信じるから与えられるとしており、なんだかその時々で微妙に話がちがっているようだ。
 人の考えは変わるものであり、矛盾を抱えているものであろうから、その意見が変わったり矛盾があったとしても、それは当たり前のことであって取り立てて非難すべきことではなかろうが、内村鑑三であってもこうだというのは少々驚かないではいられない。
 でも現実はこの通りであって、偉人賢人であろうが何だろうが、人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはないのだろう。自分は、誰かを尊敬してしまうと、すぐに心酔しきってしまい、この人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖があるのでよくよく注意したいと思う。