*メモ
 岩波書店の『内村鑑三選集〈5〉自然と人生』を読んでいたら、進化論について触れた文章があったので、ここに抜き出して簡単な感想をメモしておきたい。


*神の意思と生物の進化
天然に在りて天然以上の或者が顕はれつゝあるのである、天然は自から進化しつゝあるのではない、神が天然を通して御自身を顕はし給ひつつあるのである

(「進化と自顕」内村鑑三著)
 天然とは自然のことであろうか。
 どうやら内村鑑三は、生物は進化するとしつつも、その背後には神の意思があると考えているようだ。 


*目的
余は神の存在を認めざる進化論を信じない、もちろん斯かる者を信じない、然れども進化の在る事は確である、進化は在る計画の漸次的発展である 〈省略〉 余は真理の種を地に投じ、永久に其成長を待つ、而して是も亦何時かは進化し即ち発展して麗はしき花と美味き果と成りて現はるゝ事を信じて疑はないのである、実に然り、余も亦進化論者の一人である。 

(「進化論」内村鑑三著)
 ここでも生物の進化は事実であるとしつつ、その背後には神の意思、計画があるとしている。さらには「麗はしき花と美味き果」という目的があるとも。


*信仰者
生物は皆塵より出て塵に帰る。如何にして生命が塵を摂て現はれし乎、其順序方法を究むるのが生物学である。進化論は造化説明の一に過ぎない。而して進化の原因と目的とに就て教ふる基督教は其説明如何に由て動かない。進化論は今日の所、其大体に於て真理であるやうに思はれる。然し乍ら基督教は進化論に依るも依らざるも真理である。

(「進化論と基督教」内村鑑三著)
 生物学は「どのように」という問いに答えようとし、キリスト教は「なぜ」「なんのために」という問いに答えるものだということだろうか。
 こういう考え方からは、内村鑑三は信仰者だということを強く感じさせられる。



*ダーウィン
進化論に二種ある。無神的進化論と有神的進化論と是れである。無神的進化論は天地は其れ自身にて、より大なる能力と智慧の指導なくして、無限に進化すると云ふのである。之に対して有神的進化論は云ふ、天然に其れ自身を発達するの能力はない。天然自体が自働体でなくして受働体である。進化は神が万物を造り給ふ途であると。そしてダーウイン自身が無神的進化論者でなくして有神的進化論者であった。

(「二種の進化論」内村鑑三著)
 内村鑑三はこの後、ダーウィンは有神的進化論者であるとする根拠を並べているのではあるが、ここは疑問に思う。もしダーウィンは内村鑑三の言う通りの考え方をしていたのであれば、ダーウィンとウォレスとを対立的な立ち位置におく見方が生れようもなかったのではなかろうか。もっとも自分はダーウィンのことについては詳しくないので、はっきりしたことは言えないのではあるが。


*疑問
 生物の進化の背後には、神の意思と計画があったと仮定した場合、疑問に思うことがある。それは寄生バチのような惨い生物が存するのにはどのような意味があるのだろうかということである。
 生物は神とは関係なしに生まれ進化してきたとすれば、どんなに惨い生態を持った生物がいようがおかしくはないが、生物は神の意思と計画によって生まれ進化してきたとすると上のような疑問を持たないではいられないのだ。「なぜ神は、このような残酷で惨い生態をもつ生物をつくったのか?」と。
 内村鑑三はこの辺りの問題はどのように解決したのだろうか。ひきつづきその著作を調べてみたいと思う。