「第十五講 ヨブ終に贖主を認む」の要点を抜き出しつつメモ。
  • 「第九章の研究」。
  • ヨブは「友の無情を怨じ、またその憐みを乞う」。
  • しかし友らの態度に変化はない。
  • ヨブは後世の判断を期待して、自らの言葉が書きとめられ、書物となり、岩に刻まれることを願う。
  • しかし後世の人々も、友と同じ人であるにすぎず、何らの望みも託すことはできぬこと、および「我を贖う者」は神の他にありえないことを知る。
  • 「ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてそれを求めるに至ったのである」。
  • さらには「神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう」ことを確信する。
  • 「ヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである」。
  • 「ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである」。
  • 「信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない」。「我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である」。
 この講を読むと、人は自分を知る者のために命をも捨てるとか、信仰は個人的なことで、ただ一人、神と向き合うものだということがよく納得できる。
 また西郷隆盛の言葉を思い出させるところもある。 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉だ。
 これは人ではなく、天、神と向き合おうとするところはヨブと同じだろう。ただヨブは対立者への報復を考えているのに対して、西郷隆盛にはそういう感情は見られないところは正反対ではある。
 神による復讐についてはパウロも書いているし(ロマ12.19-21)、この辺りの聖書の考え方にはどうしても馴染めないのではあるが、これが異文化ということなのだろう。