『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著

 タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。

(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。

(同上、p.230)
 宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。

(同上、p.301)
 信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。

(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。

(同上、p.75)
 聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。

(同上、p.74)
 本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。